20世紀・シネマ・パラダイス
フランソワ・トリュフォー
Francois Truffaut
1932-1984 (フランス)
◆
代表作
大人は判ってくれない
Les Quatre cents coups
(1959年/フランス)
突然炎のごとく
Jules et Jim
(1962年/フランス)
映画に愛を込めて
アメリカの夜
La Nuit americaine
(1973年/フランス)
アデルの恋の物語
L'Histoire d'Adele H.
(1975年/フランス)
トリュフォーの思春期
L'Argent de poche
(1976年/フランス)
終着駅
Le Dernier metro
(1980年/フランス)
◆
ヌーヴェルヴァーグの旗手
・
1932年
、パリで私生児として生れた。母親が結婚した男性に認知されてトリュフォーの姓を得たが、8歳までは祖母に育てられた。祖母の死後、両親と暮らし始め、父親が実父でないことを知った。学校をサボり、劇場に潜り込んでは映画を鑑賞する日々を過ごした。
*
実の父親は1968年に私立探偵の調査により特定された。
・15歳の時に自らシネクラブを組織し、代表的なシネクラブ 「シネマテーク・フランセーズ」 等に通ったりしていた時
期に映画評論家のアンドレ・バザンと知り合った。
不登校や家出を繰り返して感化院に入所させられた際、パザンが身元保証人となり出所することが出来た。
18歳の時に失恋が原因で軍隊に入隊したが、脱走を図り、軍刑務所に投獄された際も、パザンが奔走して除隊することが出来た。
(右の写真) 「ヌーヴェルヴァーグの精神的父親」 アンドレ・パザン(1918〜1958年)
・バザンの勧めで映画評論家となり、バザンが初代編集長の 「カイエ・デュ・シネマ」 誌などで映画評論を執筆。
自身が気に入らない作品や映画人を辛辣に批評し、‟
フランス映画の墓堀人
” の異名を取った。
22歳の時にサイレントの短編 『ある訪問
』 (1954年)
を自主製作。
24歳の時にイタリア・ネオレアリズモの巨匠
ロベルト・ロッセリーニ
監督の助監督となったが、この時期のロッセリーニは作品を完成させていない。
(左の写真) トリュフォー(左) とロベルト・ロッセリーニ
・25歳の時に映画配給会社の社長令嬢と結婚。義父から資金援助を受けて、映画製作会社 「フィルム・デュ・キャロッス」 社を設立し、短編映画 『あこがれ』
(1958年)
を監督。本格的に映画監督としての道を歩み始めた。
*
フィルム・デュ・キャロッス社 … トリュフォーが崇拝していた
ジャン・ルノワール
監督の 『黄金の馬車
Le Carrosse d'or
』 (1953年)
にちなんで命名された。
・初の長編 『大人は判ってくれない』
(1959年)
を発表。自身の少年時代の体験をベースにした自伝的作品は大ヒットし、カンヌ国際映画祭の監督賞を受賞。トリュフォーの名を世界中の映画ファンに知らしめたヌーヴェルヴァーグを代表する1作となった。前年に他界したアンドレ・パザンに捧げられている。
(右の写真) 『大人は判ってくれない』 撮影時のトリュフォー監督
トリュフォーの分身とも言える主人公のアントワーヌ・ドワネルを演じたジャン=ピエール・レオとは、『二十歳の恋 / アントワーヌとコレット』
(1962年)
、『夜霧の恋人たち』
(1968年)
、『家庭』
(1970年)
、『逃げ去る恋』
(1979年)
と、20年に渡って ‟アントワーヌ・ドワネルの冒険” シリーズを撮り続けた。映画監督と俳優として極めて稀で幸福な関係を築いた。
(左の写真) ジャン=ピエール・レオ と トリュフォー監督
・犯罪ドラマ 『ピアニストを撃て』
(1960年)
を取った後、恋愛ドラマの名作 『突然炎のごとく』
(1962年)
を監督。
ジャンヌ・モロー
が演じた奔放なヒロインは同性からも共感を得て世界中で大ヒットした。
その後、『二十歳の恋 / アントワーヌとコレット』
(1962年)
、『柔らかい肌』
(1964年)
を監督。
(右の写真) 『突然炎のごとく』 撮影時。ジャンヌ・モローと
・ハリウッドの
ウォーレン・ベイティ
から 『俺たちに明日はない』
(1967年)
の監督を打診され興味を示したが、『華氏451』
(1966年)
の製作が決まった為に辞退した。
・自身初のカラーで唯一の英語作品 『華氏451』
(1966年/英)
を監督。
トリュフォーは14歳で学校へ行くことを放棄したが、週に3冊の本を読むことを自分に課していた。映画と同様に書物を愛していたトリュフォーの念願の作品だったが、主役のオスカー・ウェルナーと役作りで対立し、撮影では苦労が絶えなかったという。
(左の写真) 『華氏451』 撮影時。オスカー・ウェルナー(左)、ジュリー・クリスティと
・1966年、「映画術 ヒッチコック / トリュフォー」 を出版。
トリュフォーが崇拝していた
アルフレッド・ヒッチコック
監督にインタビュー
(1962年)
した内容が収録されている。
(右の写真) アルフレッド・ヒッチコック監督と
・1968年、「シネマテーク・フランセーズ」 の運営への政府の介入、パリ五月革命などをきっかけに、カンヌ国際映画祭の粉砕を主張し、映画祭を中止させた。
(左の写真) 左から、クロード・ルルーシュ、
ジャン=リュック・ゴダール
、
トリュフォー、
ルイ・マル
、ロマン・ポランスキー。1968年、カンヌにて
・ヒッチコック監督の
『裏窓』
(1954年)
の原作者ウィリアム・アイリッシュ (=コーネル・ウールリッチ) のミステリー 『黒衣の花嫁』
(1968年)
、『暗くなるまでこの恋を』
(1969年)
を監督。後者はジャン・ルノワール監督に捧げられた。
『黒衣の花嫁』 (1968年) 撮影時
ジャンヌ・モローと
『夜霧の恋人たち』 (1968年) 撮影時
ジャン=ピエール・レオと
『暗くなるまでこの恋を』 (1969年) 撮影時
カトリーヌ・ドヌーヴ
と
・私生活では2児を授かったが1965年に離婚。「アントワーヌ・ドワネルの冒険」 シリーズの後期3作でヒロインを務めたクロード・ジャドと婚約したが結婚には至らなかった。
自作の 『野生の少年』
(1970年)
で俳優としても本格的にデビューした。
『野生の少年』 (1970)
ジャン=ピエール・カルゴルと
『家庭』 (1970年) 撮影時
クロード・ジャドと
『恋のエチュード』 (1971年) 撮影時
ジャン=ピエール・レオと
・『
映画に愛を込めて
アメリカの夜』
(1973年)
でアカデミー賞外国語映画賞を受賞。新作を撮影中の映画人たちの人間模様を描いた作品で、トリュフォーも監督役で出演。「アメリカの夜」 とは、昼間に夜の場面を撮るためレンズにフィルターを付ける撮影技法の意。本作はトリュフォーが崇拝していた映画監督の1人、
D・W・グリフィス
監督作品の多くでヒロインを務めた
リリアン・ギッシュ
、ドロシー・ギッシュの姉妹に捧げられている。
『私のように美しい娘』 (1972年) 撮影時
ベルナデット・ラフォンと
『
映画に愛を込めて アメリカの夜』
(1973年)
ジャクリーン・ビセットと
アカデミー賞授賞式。プレゼンターは
ユル・ブリンナー
*
同授賞式で、「シネマテーク・フランセーズ」 の創設者アンリ・ラングロワが名誉賞を受賞。そのスピーチを
ジーン・ケリー
が通訳した。その為、トリュフォー監督が 「
ジーン・ケリーが必要だ
」、と発言している。
・自作のモチーフは 「女性と子どもと書物」 への愛だと語り、愛を追及した映画を撮り続けた。
『アデルの恋の物語』 (1975年)撮影時
イザベル・アジャーニと
『トリュフォーの思春期』 (1976年) 撮影時
『恋愛日記』 (1977年) 撮影時
ブリジット・フォッセー
と
・スティーブン・スピルバーグ監督からのたっての要請で 『未知との遭遇』
(1977年)
に出演。
『未知との遭遇』 (1977年)
撮影時。スティーブン・スピルバーグ監督(右)と
・『終電車』
(1980年)
はキャリア最大のヒット作となり、セザール賞の作品賞、監督賞など10部門で受賞した。
『緑色の部屋』 (1978年)
フランソワ・トリュフォー
『逃げ去る恋』 (1979年) 撮影時
ジャン=ピエール・レオと
『
終電車』 (1980年) 撮影時
カトリーヌ・ドヌーヴと
・『日曜日が待ち遠しい!』
(1983年)
が遺作となった。
『隣の女』 (1981年) 撮影時
ファニー・アルダンと
『日曜日が待ち遠しい!』 (1983年) 撮影時
ファニー・アルダンと
・最後の2作品でヒロインを務めたファニー・アルダンとは私生活でもパートナーとなり、1983年に娘を授かったが結婚はしていなかった。
・
1984年
、
52歳
で他界。ヌーヴェルヴァーグの旗手から戦後のフランスを代表する映画監督に。その早逝は世界中の映画ファンから惜しまれた。
・ドキュメンタリー映画 『フランソワ・トリュフォー 盗まれた肖像』
(1993年)
、『ふたりのヌーヴェルヴァーグ ゴダールとトリュフォー』
(2010年)
、「映画術 ヒッチコック / トリュフォー」 を映画化した 『ヒッチコック / トリュフォー』
(2015年)
等が製作されている。
(左の写真) ジャン=リュック・ゴダール(左) と トリュフォー
HOME