20世紀・シネマ・パラダ
イス
◆ アカデ
ミー賞の最多受賞記録を樹立したスペクタクル史劇の金字塔
西暦26年。ユダヤ人の都市エルサレムはローマ帝国に支配され、その悪政に苦しめられてい
た。しかし、ユダヤの人々は救世主の出現を信じていた…。
ローマの軍人メッサラが駐屯軍の司令官として故郷のエルサレムに戻ってきた。子供の頃の親友
でユダヤ人のベン・ハーが訪ねて来て、2人は再会を喜び合った。
ベン・ハーはかつての王家の血筋で人望もある。メッサラはローマ帝国への協力を求めたが、ベン・ハーは暴力で同胞を支配するローマ帝国のやり方を否定
し、協力を拒んだ。 |
あ
る日、ベン・ハーは下僕のサイモニデスから娘のエ
スターを紹介され、お互いに見初め合った。 |
新任の総督が町を行進中、ベン・ハーの屋敷の屋根瓦が落ち、総督が落馬する事故が起きた。
ベン・ハーの一家は反逆罪に問われ、メッサラは立身出世のために友人の一家を見捨てた。 |
ベン・ハーは身分を奴隷に落とされた。流刑地に送られる途中、飢えと渇きで事切れそうに
なったが、ある人から水を与えられ生きながらえることができた。 |
ベン・ハーがガレー船の漕ぎ手となって3年が過ぎた。ユダヤの神への信仰心とメッサラへの
復讐心が彼を支えていた。 |
ローマと敵対国との海戦の最中、ベン・ハーはローマ艦隊の総司令官アリウスの命を救った。海戦はローマが勝利した。 |
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ガレー船から解放され、ローマでアリウスの奴隷となったベン・ハーは、戦車レースで活躍
し、息子を亡くしていたアリウスの養子として迎えられた。
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ベン・ハーは母と妹を探すためエルサレムへ向かった。旅の途中、偉大な人を
探しているバルサザール博士という人物と出会い、4頭の白い駿馬を持つアラブの族長シークからは、エルサレムの戦車レースではメッサラが無敵の強さを誇っていることを知らされた。
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ベン・ハーは4年ぶりに帰郷した。屋敷は荒廃していたが、サイモニデスとエスターが留守を守っていた。しかし、母と妹は4
年前から地下牢に閉じ込められたままであり、その生死さえ定かでなかった。
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ベン・ハーはアリアスの息子としてメッサラを訪ね、母と妹の消息を調べるように命じた。
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母ミリアムと妹ティルザは地下牢で生き延びていたが、ライ病に冒されていた。
2人は死の谷へ向かう前に屋敷を訪ね、エスターに自分たちは死んだ事にするよう約束させた。
母と妹が死んだと聞かされたベン・ハーはメッサラへの復讐を誓った。
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シークがメッサラを訪ね、次の戦車レースではベン・ハーが騎手を務めると宣言し、自分の馬
が勝つことに金貨1千枚を賭けると言い放つと、メッサラは受けて立った。
ベン・ハーとメッサラの雌雄を決する戦車レースが始まった。
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ベン・ハーが勝利し、戦車に轢かれ致命傷を負ったメッサラは、ベン・ハーの母と妹が死の谷
で生きていることを告げ、「勝負はまだ終わってないぞ 」 の言葉を最期に息絶えた。
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ベン・ハーは母と妹に会うため死の谷へ向かったが、2人に食料を届けに来たエスターと出く
わし、会うことを止められた。
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帰途、丘に大勢の人々が集まっており、ベン・ハーはバルサザール博士と再会した。博士は遂
に偉大な人を探し当てたと言い、ベン・ハーにもその人の話を聞く
ように促した。しかし、ローマ帝国への憎しみに満ちているベン・ハーには、憎しみよりも愛を説くという人には関心が無かった。
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ベン・ハーにローマ帝国の市民権が与えられる事になったが、ベン・ハーは拒否し、アリウス
家の家紋が刻まれた指環を提督に突き返した。
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ベン・ハーが再び死の谷へ向かうと、妹のティルザが死の床に臥せていた。ベン・ハーはエス
ターに促され、母と妹を偉大な人のところへ連れて行ったが…。
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『ベン・ハー』 予告編
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◆ 主な出演者など
・ベン・ハー役 … チャールトン・ヘストン
・エスター役 … ハイヤ・ハラリート
・シーク役 … ヒュー・グリフィス
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・メッサラ役 …
スティーヴン・ボイド
・アリウス役 … ジャック・ホーキンス
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・原作は、南北戦争で北軍の将軍だったルー・ウォーレスが1880年に発表した歴史小説
「ベン・ハー」 。
当時のアメリカでは 「アンクル・トムの小屋」 (1852年) を抜いて史上最大のベストセラーと
なり、「風と共に去りぬ」
(1936年) に抜かれるまで発行部数第1位を保持し続けていた。
(右の写真) 原作者のルー・ウォーレス将軍 (1827〜1905年)
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・サイレントの時代、1907年と1925年に2度映画化されており、1925年度版は大
ヒットしたが、作品が完成するまでは紆余曲折の連続だった。
1924年、ゴールドウィン社が映画化権を取得。脚本家のジューン・マシス女史は、愛しのルドルフ・ヴァレンチノを念頭に脚本を執筆したが、当時のヴァレンチノはワンマ
ン・ストライキを敢行中で出演出来なかった。
(左の写真) 『ベン・ハー』 (1925年) フランシス・X・ブッシュマン(左) とラモン・ノヴァロ |
ローマでの撮影がスタートすると、チャールズ・ブレビン監督が主役のジョージ・ウォルシュ
の演技に不満で、ラモン・ノヴァロに交代させるという事態を招いていた。 |
撮影が進む中、本国ではゴールドウィン社が合併し、MGM社が成立。新たな経営陣はトラブ
ル
続きのローマでの撮影を中止させ、監督をフレッド・ニブロに交代してアメリカで撮り直させた。そんなこんなでサイレント期では最大の製作費がかかり、作品
がヒットしなければ新会社の経営の屋台骨を揺るがす事になっていたと言われている。 (右の写真) 『ベン・ハー』
(1925年) 撮影時。
ルイス・B・メイヤー(戦車の上) とフレッド・ニブロ監督
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* 1907
年度版、1925年度版ともYouTube で無料で視聴出来ます。
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・本作 (1959年度版) の製作
も順風満帆ではなかった。 |
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