20世紀・シネマ・パラダイス
ジーン・アーサー
Jean Arthur
1900-1991 (アメリカ)
◆
代表作
オペラハット
Mr. Deeds Goes to Town
(1936年/アメリカ)
平原児
The Plainsman
(1936年/アメリカ)
歴史は夜作られる
History is Made at Night
(1937年/アメリカ)
我が家の楽園
You Can't Take It
with You
(1938年/アメリカ)
スミス都へ行く
Mr. Smith Goes to
Washington
(1939年/アメリカ)
シェーン
Shane
(1953年/アメリカ)
◆
ハスキー・ボイスでトーキー後に人気爆発
・
1900年
、ニューヨーク生れ。本名は
Gladys Georgianna Greene
。芸名は、彼女にとっての歴史上の英雄 「
ジャンヌ・ダルク
」 と「
アーサー王
」 から採った。
父親が写真家だったこともあり、子供の頃からモデルをしており、フォックス社にスカウトされて映画界入り。
『侠骨カービー』
(1923年/監督:
ジョン・フォード
)
の準主役級で銀幕デビューした。
2作目の 『海底の大宮殿』
(監督:ヘンリー・オットー)
ではヒロインに抜擢されたが、監督が彼女の演技に不満でエキストラ同然の端役に降格。その後、数本の短編映画に出演しただけで、1年の契約が終了するとお払い箱にされた。
・演技が好きだった彼女は女優を続け、マイナー会社で数多くのB級西部劇に出演。撮影環境は劣悪であったという。
また、
バスター・キートン
の 『セヴン・チャンス』
(1925年)
にもクレジットなしの端役で出演した。
(右の写真) 『セヴン・チャンス』 の出演シーン
・コメディ 『野球王』
(1928年)
の演技で注目を集め、パラマウント社と契約。
彼女は 「しゃがれ声」 であったため、トーキー時代を乗り越えられるか危ぶまれ、実際、その声の為に起用を敬遠する製作者や監督もあったという。
トーキー移行後、『カナリヤ殺人事件』、『恋のデパート』
(1929年)
等に出演したが、なかなか芽が出なかった。
『カナリヤ殺人事件』
ルイーズ・ブルックス
(右)と
『恋のデパート』
クララ・ボウ
(中央)と
・1932年、パラマウント社との契約が切れたのを契機に、活動の中心をブロードウェイの舞台に移した。舞台の合間を縫って映画にも出演し続けたが、舞台を経験したことで演技を磨き直した。
・1934年、コロンビア社と契約。
コメディ 『俺は善人だ』
(1935年/監督:ジョン・フォード)
でキャリア・ウーマンを演じて好評を博した。この頃から髪をブロンドに変えた。
(左の写真) 『俺は善人だ』
エドワード・G・ロビンソン
と
・1936年、キャリア最大の転機が訪れた。
『オペラハット』
(監督:
フランク・キャプラ
)
が大ヒットし、国際的な人気女優となった。当初のヒロイン役であった
キャロル・ロンバード
が撮影直前にキャンセルし、彼女の起用が決まったのは撮影開始後だった。
(右の写真) 『オペラハット』
ゲーリー・クーパー
と
・フランク・キャプラ監督のお気に入りの女優となり、同監督の 『我が家の楽園』
(1938年)
、
『スミス都へ行く』
(1939年)
でもヒロインに起用された。『オペラハット』 で大ブレイクした時は36歳。同じくハスキー・ボイスの大スター、
グレタ・ガルボ
が引退した年齢である。
遅咲きではあったが、以後、名監督たちに起用され、高い人気を保持した。
(左の写真) 『我が家の楽園』 撮影時。フランク・キャプラ監督と
・パラマウント社に貸し出されて出演した大作西部劇 『平原児』
(1936年/監督:
セシル・B・デミル
)
で、お気に入りの男優であったゲーリー・クーパーと再共演。西部開拓時代の実在の人物 「平原の女王」 ことカラミティ・ジェーンを颯爽と演じ、自身のお気に入りの役の1つとなった。
(右の写真) 『平原児』 ゲーリー・クーパーと
・靴を脱ぎ捨てて踊るシーンが評判となったメロドラマの秀作 『歴史は夜作られる』
(1937年/監督:
フランク・ボーゼージ
)
、キャプラ監督との2作目で、アカデミー賞作品賞を受賞した『我が家の楽園』
(1938年)
等に出演。
『歴史は夜作られる』
シャルル・ボワイエ
と
『我が家の楽園』
ジェームズ・ステュアート
(中央)、ライオネル・バリモア(右)と
・航空アドベンチャー 『コンドル』
(監督:
ハワード・ホークス
)
、キャプラ監督との3作目
『スミス都へ行く』
(1939年)
に出演。キャプラ監督の絶頂期をヒロイン役として支えた。
39年には
『風と共に去りぬ
』
が公開されたが、彼女はスカーレット・オハラ役の最終候補の4人まで残っていた。
『コンドル』
ケーリー・グラント
と
『スミス都へ行く』 ジェームズ・ステュアートと
・『希望の降る街』
(1942年)
、『陽気なルームメイト』
(1943年)
と、2作続けて
ジョージ・スティーヴンス監督
作のヒロインに起用され、『陽気なルームメイト』 でアカデミー賞主演女優賞にノミネートされた。スティーヴンス監督曰く、「
彼女は最も偉大なコメディエンヌの1人
」。
『希望の降る街』
ケーリー・グラント(中央)、
ロナルド・コールマン
(右)と
『陽気なルームメイト』
ジョエル・マクリー
と
・1944年、コロンビア社との契約が終了すると、時折舞台には出演していたが、銀幕からは遠ざかり、映画女優としては引退に近い状況となった。
(右の写真) 『西部を駆ける恋』 (1943年)
ジョン・ウェイン
と
・
ビリー・ワイルダー監督
に請われ、『異国の出来事』
(1948年)
で4年ぶりに銀幕復帰。
(左の写真) 『異国の出来事』
マレーネ・ディートリッヒ
(左)と
・1950年、ブロードウェイの舞台 「ピーター・パン」 で、タイトル・ロールを演じて大成功を収めた。
(右の写真) 「ピータ・パン」 に扮したジーン・アーサー。当時50歳。
・ジョージ・スティーヴンス監督に請われ、
『シェーン』
(1953年)
で5年ぶりに銀幕復帰。
彼女にとって最初のカラー作品で、キャリア最大のヒット作となったが、最後の劇場用映画にもなった。
(左の写真) 『シェーン』
アラン・ラッド
(左)、ヴァン・ヘフリン(右)と
・TVドラマ 「
Gunsmoke
」
(1965年)
にゲスト出演し、12年ぶりに公に姿を現し、翌66年には 「ジーン・アーサー・ショー」 という冠番組が放映されたが、視聴率が伸びずに3ヶ月で打ち切りとなった。
(右の写真) 「ジーン・アーサー・ショー」 より
・1960年代後半から数年間、 ニューヨークのヴァッサー大学とノース・カロライナ芸術大学で演技についての講義を受け持った。後の大女優メリル・ストリープ
(ヴァッサー大学)
も受講生の1人だった。
・私生活ではマスコミを遠ざけ、隠遁生活を送っていた。2度の結婚・離婚をしたが、最初の結婚は僅か1日で解消。『西部を駆ける恋』 等の製作者フランク・ロスとの2度目の結婚
(1932-1949)
でも子宝には恵まれなかった。
・
1991年
、
90歳
で他界。遺灰はカリフォルニア州沖のポイントロボスに撒かれた。
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