20世紀・シネマ・パ
ラダ
イス
我が道を往く
Going My Way
監督:レオ・
マッケリー
(1944年/アメリカ)
◆ アカデミー賞作品賞を受賞した心暖まる感動のヒューマン・ドラマ
ニューヨークの下町にある聖ドミニク教会。フィッ
ツギボン神父 が45年前に赴任してきた時に建てた教会だが、近年は財政難にあえいでいた。この日も、町の有力者ヘインズ氏に暖房設備復旧の
資金援助を依頼したが、反対に借金の返済を迫られてしまった。
そのドミニク教会へ、副神父として年若いチャー
ルズ・オマリー 神父 が派遣されてきた。
オマリーは苦境の教会を立て直すために、フィッツギボンに代る主任神父として白羽の矢を立てられたのだが、主教と話し合った末、自ら補佐役に回ったの
だった。そして、この事はフィッツギボンには内緒にされていた。
教区内で様々な問題が発生した。信者のクインプ夫人は家賃を5ヶ月も滞納しており、家主の
ヘインズ氏の息子であるテッドに立ち退きを迫られていたが、オマリーはもう1ヶ月の猶予を取り付
けた。
町の不良少年たちが七面鳥を泥棒したのを目撃したオマリーは、リーダー格のトニーとハーマ
ンを呼び出し、彼らを野球観戦に招待し、交流し始めた。
一文無しで路頭に迷っているところを警官に補導された歌手志望の家出娘キャロルには、歌唱
方法をアドバイスし、10ドルを恵んでやった。
オマリーはトニーに町の子供たちを集めさせ、聖歌隊を作ることにした。初めは興味を示さな
かった子供たちだが、オマリーの指導で次第に合唱の魅力に目覚めていった。
進歩的なオマリーとの相性の悪さを感じていたフィッツギボンは、主教にオマリーの転任を願
い出たことを告白した。だが、主教の様子から全てを察し、教会を
オマリーに任せ、自分は隠居することに決めたと宣言した。
その日の夜。フィッツギボンが教会から姿を消した。しかし、行くあてのない老神父は、雨に打たれ、びしょ濡れになって帰ってきた。
オマリーとフィッツギボンは、フィッツギボンの90歳になる母親から毎年クリスマスに贈ら
れてくるというウィス
キーで乾杯した。フィッツギボンはこの45年間、故郷のアイルランドにいる母親とは会えずにいた。オマリーはフィッツギボンに請われ、アイルランドの子守
歌「トゥラルラルー 」を歌ってやった。
聖歌隊の子供たちを観劇に招待した帰り道。オマリーは幼馴染みのジェーン・リンデン と偶然に再会した。
ジェーンはオペラ歌手として成功し、コスモポリタン歌劇場で上演中の「カルメン」の主役を演じていた。
クインプ夫人からの通報で、キャロルが立派な部屋を借り、そこへテッドが出入りしていると
知らされたオマリーは、2人の様子を伺いに行った。2人は特に悪びれた態度でもなく、オマリーはキャロルに請われて自作の曲「我が道を往く 」
を歌って聞かせた。数日後、キャロルとテッドは結婚し、テッドは軍に入隊した。
幼馴染みのオダウト
神父 と
ジェーンがドミニク教会に訪ねて来た。オマリーと聖歌隊は2人を合唱でもてなした。
教会の窮状を知ったジェーンは、劇場にオダウト神父の知り合いの出版社を招待し、聖歌隊の
合唱でオマリーの曲を披露した。スローバラードの「我が道を往く 」には興味を示さなかった出版社だが、アップテンポの楽曲「星にスイ
ング 」の楽譜を買い取ると申し出てきた。
フィッツギボンを驚かせるため、出版社の契約金は教会への寄付という形で支払われた。
借金も返済でき、オマリーとオダウトは久しぶりのゴルフを楽しみ、フィッツギボンも生まれて初めてゴルフをプレイした。
万事が順調になった矢先に教会が火事で全焼してしまった…。
『我が道を往く』 予告編
VIDEO
◆ 主
な出演者など
・オマリー神父役 … ビング・クロスビー
・フィッツギボン神父役 … バリー・フィッツジェラルド
・ジェーン役 … リーゼ・スティーヴンス
・オダウド神父役 … フランク・マクヒュー
・
製作・監督・脚本(原案)の3役をこなしたレオ・マッケリー はコメディを数多
く手掛けており、本作でもその手腕を十分に発揮。老神父と青年神父のコントラストをユーモアたっぷりに描き、観ていて肩が凝らず、感動的なラストでは心暖
まる演出をしてみせた。
(右の写真)撮影時。マッケリー監督(左)、ビング・クロスビー
・アメリカでは、その年最大のヒット作となった。
戦後、淀川長治さんが進駐軍の兵士たちに、最近観た映画で良かったものは?と質問したところ、皆が口を揃えたように『Going My Way
』
と応えたそうです。
日本では昭和21年(1946年) に公開され、キネマ旬報ベスト・テンで戦後最初の第1位に選出され
た。
・アカデミー賞では、バリー・フィッツジェラルドが主演と助演の両方でノミネートされると
いう珍事が発生し、9部門で10のノミネーションとなった。結果、作品賞、主演男優賞(ビング・クロスビー) 、
助演男優賞(バ
リー・フィッツジェラルド) 、監督賞、原案賞、脚
色賞、歌曲(主題歌)賞の7部門で受賞した。
(右の写真)左から、バリー・フィッツジェラルド、イ
ングリッド・バーグマン (『ガス燈』で主演女優賞)、ビング・クロスビー
・アメリカで有数の人気歌手だったビング・クロスビー。俳優としても、ボブ・ホープ とのコンビ作‟珍道中シリーズ”等をヒットさせていたが、本作で更に人気上昇。人気
No.1のエンターテイナーとしての地位を築いた。
本作からは、オスカーを獲得した「星にスイング 」(全米第1位) と、「トゥラルラ
ルー 」(同第4位) の2曲がミリオンセラーの大ヒットとなった。
・翌1945年、ビング・クロスビー、イングリッド・バーグマン共演の姉妹作
『聖メリーの鐘』が公開され、本作以上の記録的大ヒットとなったが、本来は『我が道を往く』の方が続編だった。尚、『我が道を往く』はパラマウント社の作
品で、『聖メリーの鐘』はRKO社の作品。
◆ ピック・アップ … バリー・フィッツジェラルド
Barry Fitzgerald
1888-1961 (アイルランド)
・1888年、アイルランドのダブリン生れ。公務員として働きながら舞台に出演していた。
ルームメイトでもあった劇作家ショーン・オケイシー原作の映画化作品『ジュノーと孔雀』(1929年/監督:アルフレッド・ヒッチコック ) で本格的な銀幕デビューをした。
・ショーン・オケイシー原作の『鍬と星』がハリウッドで映画化されることになり、監督のジョン・フォード に請われて渡米。以後、フォード監督の『果てなき航路』(1940年) 、『わが谷は緑な
りき』 (1941年) 、『静かなる
男』 (1952年) 等に出演。
『そして誰もいなくなった』(1945年/監督:ルネ・クレー
ル ) 、『裸の町』(1948年) 等では主役を務めた。
・『我が道を往く』で、アカデミー賞の主演賞と助演賞の両方でノミネートされ、助演男優賞
を受賞。ニューヨーク映画批評家協会賞では主演男優賞を受賞した。
当時は戦時下で金属不足のため、オスカー像は石膏製だったが、フィッツジェラルドは自宅でゴルフのスイングを練習中に誤ってオスカー像の首をへし折っ
てしまった、というエピソードも。
(右の写真)首の折れたオスカー像と
・1959年、アイルランドへ帰郷。2年後、72歳 で他界。