20世紀・シネマ・パラダ
イス
|
わが谷は緑なりき
How Green Was My
Valley
監督:ジョン・
フォード
(1941年/アメリカ)
|
◆ アカデミー賞作品賞を受賞したジョン・フォード監督の不朽の名作
ウェールズ地方のロンダの谷にある炭坑町。初老となったヒュー・モーガンは、今ではすっかり寂れてしまった生まれ故郷を後にしようとしていた…。
…ヒューがまだ子供の頃、炭坑町は活況を呈していた。父親のギルムと5人の兄たちは炭坑で働
いており、ヒューも炭坑夫に憧れていた。 |
ある日、年若い女性がモーガン家に訪ねて来た。長男イヴォールの妻となるブローウィンだった。
|
イヴォールとブローウィンの結婚式。姉のアン
ハードは、
新任牧師のグリュフィードに恋心を抱いていた。 |
ある日、会社が炭坑夫たちの賃下げを通知してきた。
|
|
4人の兄たちは、組合を組織して会社と対抗することを主張。反対
する父親と対立し、家を出て行ってしまった。
(注)結婚した長男のイヴォールは新居を構えている。
|
ストは長期化し、町の人々の心は荒んでいった。そして、ストに反対していたギルムは、会社
側の人間と見なされ、嫌がらせを受けた。
吹雪の夜。母親のベスは、組合の
集会に乗り込み、夫への嫌がらせを猛抗議した。その帰り道。ベスとヒューは足を滑らせて、凍てついた川へ落ちてしまった。
|
2人は一命を取り留めたが、ヒューはもう歩くことが出来ない
かもしれないとの医者の
言葉を聞いてしまい落ち込んでいた。そんなヒューを励ましたのはグリュフィード牧師だった。牧師から与えられた「宝島」等の書物は、寝たきりのヒューを大
いに慰めた。
|
季節は春となり、2階で療養していた母親のベスが漸く歩けるようになり、数ヶ月ぶりに
ヒュー
と再会した。
|
ベスの回復を祝福するため、町中の人々がギルム家に集まり、家を出ていた4人の息子たちが
帰って来た。
|
グリュフィード牧師もアンハードに心惹かれていたが、貧しい聖職者の身では、彼女を幸せに
す
ることが出来ないと自制していた。
|
ギルムと牧師の尽力により、ストが終結した。しかし、炭坑夫の人数が過剰であり、職にあぶ
れた四男のオーエンと五男のギルム・ジュニアは、新天地アメリカへ旅立つ決意をした。
|
モーガン家が悲しみに沈んでいた時、長男イヴォール宛に、女王陛下の前で合唱を披露された
し、
との通知が届き、町中が歓喜した。
|
その夜。皆が合唱の練習をしている間に、オーエンとギルム・ジュニアは旅立って行った。
|
グリュフィード牧師に背負われて水仙の花を摘みに行ったヒューが、牧師に励まされ、自分の
足
で歩けるようになった。
|
モーガン家が笑顔を取り戻したある日、炭坑主のエ
バンズ親子が訪ねて来て、アンハードとの交際を申し込んできた。
|
アンハードはグリュフィード牧師の家を訪ね、愛を告白した。牧師は、彼女を愛しているが故
に、貧しい聖職者の家に迎えて犠牲を強いることは出来ないと応えた。
|
アンハードは炭坑主の息子と結婚することになった。結婚式では、花嫁姿のアンハードに笑顔
はなかった。
|
牧師の勧めもあり、ヒューはモーガン家の人間では初めて学校へ通うことになった。
|
隣の谷に
ある学校へ初登校すると、教師は炭坑町のヒューを馬鹿にして生徒達の見世物にした。ヒューはガキ大将にも嫌がらせを受け、ケンカに負けて帰宅した。
|
ギルムは拳闘家のダイを呼
び、ヒューにボクシングを習わせた。
|
ヒューは2度目のケンカでガキ大将を打ち負かしたが、教師はヒューだけに体罰を与えた。腹
の虫がおさまらないダイは、ヒューには無断で学校へ乗り込み、教師をノックアウトした。
|
炭坑内で事故があり、長男のイヴォールが命を落とした。その日の夜、彼の妻ブローウィンが
赤ん坊を出産した。
|
ヒューは首席で学校を卒業した。父親のギルムは進学することを勧めたが、ヒューは炭坑夫に
なることを選択した。
|
ヒューは、未亡人となった兄嫁ブローウィンの家に移り住み、炭坑で働き始めた。次男のイア
ン
トと三男のデビーは、坑内で一番腕が良く賃金が高いが故に解雇されてしまい、イアントはカナダ、デビーはニュージーランドへと旅立って行った。
|
結婚後、南米のケープタウンへ行っていたアンハードが、単身でロンダの谷のエバンズ邸へ
戻っ
て来た。アンハードを心良く思っていない女中頭らは、アンハードとグリュフィード牧師が良からぬ関係だと陰口を叩いた。
|
アンハードと牧師の噂話は町中に拡がり、モーガン家の人々は白い目で見られるようになって
しまった。
牧師は町を去る決意をし、教会での最後の説教では、陰口や噂話で他人を中傷する人々を痛烈に批難した。
|
ヒューと牧師が別れの言葉を取り交わしている時、炭坑で落盤事故が発生したことを知らせる
サイレンが鳴り響いてきた。
|
負傷者が次々と運び出されてきたが、父親ギルムの姿が見当たらない。ヒューと牧師、そし
て、拳闘の後遺症で今では視力を失っているダイらが、ギルムを救出しに坑内へ入っていったが…。
|
|
『わが谷は緑なりき』 予告編
|
◆ 主な出演
者など
・19世紀末ヴィクトリア女王時代のウェールズの炭鉱夫一家を描いた小説
「わが谷は緑なりき」
は、1939年に出版され大ベストセラーとなった。原作者のリチャード・ルウェリンは、主人公のヒューがアルゼンチンへ移住し、その後ウェールズに戻って
くる
という続編を3作発表しているが、続編は日本では翻訳されていないようです。
(右の写真)モーリン・オハラとウォルター・ピジョン
|
|
|
・映画化の権利を30万ドルで取得した20世紀FOX社のダリル・F・ザナックは、当初、監
督にウィリアム・ワイラーを起用。
ヒュー役のロディ・マクドウォールは、オーディションを受けて、ワイラー監督によって登用された。
(左の写真)左から、モーリン・オハラ、ロディ・マクドウォール、アンナ・リー(ブローウィン役) |
・物語の舞台であるウェールズで撮影する予定だったが、ナチス・ドイツの空爆により断念。
カリフォルニア州サンフェルナンド・バレーに炭坑町のセットを建設して撮影され
た。その為、撮影開始が遅れ、ウィリアム・ワイラー監督は『偽りの花園』の撮影が始まってしまい、ジョ
ン・フォード監督に交代した。
(右の写真)撮影時。ロディ・マクドウォールとジョン・フォード監督
|
|
|
・テクニカラーで撮影する予定だったが、当地とウェールズでは花の色等が違うためモノクロ
に切り替えられた。
ダリル・F・ザナックは、『風と共に去りぬ』に匹敵する4時間近くの大
作にする計画で、大人になったヒューをタイロン・パワーが演
じる予定もあったという。
(左の写真)ドナルド・クリスプとサラ・オールグッド |
・作品は大ヒットし、アカデミー賞では、その年最多の10部門でノミネートさ
れ、作品賞、監督賞、助演男優賞(ドナルド・クリスプ)、美
術賞(白黒部門)、撮影賞(白黒部門)の
5部門で受賞。
・涙あり、笑いあり。巨匠ジョン・フォード監督が見事なテンポで家族愛、人間讃歌を描いた不朽の名作。
|
|
◆ ピック・アップ … ドナルド・クリスプ
|
Donald Crisp 1882-1974 (イギリス/アメリカ)
・1882年、ロンドン生まれ。本名はGeorge William Crisp。
・1906年、アメリカへ渡る船中で歌の上手さを買われ、ブロードウェイで舞台の仕事に関わるようになった。舞台監督などを務めたほか、ジョージ・M・
コーハンのマネージャーのような仕事もしていた。 |
* ジョー
ジ・M・コーハン … 「ブロードウェイの父」と称された俳優、興行師。『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ』(1942年)は彼の伝記映画。 |
・映画俳優となり、ニューヨークのバイオグラフ社でD・W・グリフィスと知り合い、彼と共にハリウッドへ。
グリフィス監督の『國民の創生』(1915年)、『散り行く花』(1919年)等、
100本近くのサイレント映画に出演した。
(右の写真)『散り行く花』 リ
リアン・ギッシュと |
|
・俳優業だけでなく、映画監督としても活躍。『海底王キートン』(1924年/バスター・キートンと共同監督)、ダグラス・フェアバンクス主演の『ドン・Q』(1925
年)等、70本近くを監督した。
・1930年以降は俳優業に専念。『紅塵』(1932年)、『戦艦バウンティ号の叛乱』(1935年)、『黒蘭の女』(1938年)、『嵐が丘』(1939年)等、名脇役として数多
くの作品に出演。 |
・『わが谷は緑なりき』(1941年)で
アカデミー賞助演男優賞を受賞。 |
|
・ロディ・マクドウォールとは、『名犬ラッシー 家路』(1942
年)で再共演。モーリン・オハラとは、『長い灰色の線』(1955年/監督:ジョン・フォード)
で再共演した。
ヘンリー・フォンダ、
モーリン・オハラ主演の『スペンサーの山』(1963年)に出演したのが最後となった。
(左の写真)『名犬ラッシー 家路』 エルザ・ランチェスター、ロディ・マクドウォールと |
|