20世紀・シネマ・パラダ
イス
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戦場にかける橋
The Bridge on The
River Kwai
監督:デヴィッド・リーン
(1957年/イギリス・アメリカ)
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◆ 戦争の狂
気、虚しさを見事に描いた不朽の名作
第2次世界大戦下。タイとビルマの国境付近にある日本軍の捕虜収容所に、捕虜となった英軍
の一隊が移送されて来た。収容所所長の斉藤大佐は、バンコクとラングーンを結ぶ泰緬 (たいめん)鉄道を貫通させるため、クワイ川に橋を建設することを捕虜たちに命じた。 |
翌日。英軍を率いるニコルスン大佐は、
将校に労役を課すことはジュネーブ協定に反すると抗議し、労役を拒んだ。斉藤大佐は英軍の将校たちを銃殺しようとしたが、軍医のクリプトンが止めに入った。 |
英軍の将校たちは営倉に入れられた。その夜、仮病で入院していた米海軍のシアーズ中佐が仲間と脱走した。シアーズは川に落下し、他の2名は日本兵に銃殺された。 |
捕虜たちの抗議のサボタージュにより橋の建設は遅々として進まず、斉藤大佐は将校が労役
に就かねば病院を閉鎖して患者たちを働かす、との伝言をクリプトンに託してニコルスン大佐を脅したが、ニコルスン大佐は己の主義・主張を曲げなかった。
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その頃、一命を取り留めたシアーズはジャングル地帯を抜け出し、ある集落に辿り着いてい
た。収容所では、工事の遅れを取り戻そうと斉藤大佐が陣頭指揮を執り始めたが、思うようにははかどらなかった。 |
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斉藤大佐はニコルスン大佐を夕食に招いて懐柔を試みたが、ニコルスン大佐は将校たちに労役
を課すことに応じなかった。
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3月10日の陸軍記念日。斉藤大佐は英軍将校たちを営倉から解放し、労役も課さないという
恩赦を与えた。プライドを賭けた意地の張り合いはニコルスン大佐が勝利した。捕虜たちは歓喜に湧き、斉藤大佐は人知れず嗚咽を漏らした。
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数日後、気が弛んだ兵士たちを目の当たりにし、建設中の橋に致命的な欠陥があることを知ったニコルスン大佐は、自分達の手で橋を一から建設し直すことで
部隊を立て直し、英軍の技術と効率を見せつけることを決意した。
日英両軍の将校会議が開かれ、橋の建設の主導権は英軍が掌握することとなった。
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脱走に成功し、セイロンの軍病院で羽を伸ばしていたシアーズのもとへ、日本軍が建設中の橋
を爆破する任務を帯びた英軍特殊部隊のウォーデン少佐が訪ねてきて、現地を知るシアーズに同行
を求めた。シアーズは階級を
詐称して将校になりすましていたこともあって、了解せざるを得なかった。
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新しい橋の建設が始まり、兵士たちの士気は上がり、部隊は規律を取り戻した。クリプトン軍
医 「敵よりも立派な橋を作ることは反逆行為では?」。ニコルスン大佐 「斉藤を治療することになったら、手を抜いて殺すのか?…。後
世の人は橋を見て、イギリス人は捕虜となっても奴隷には成り下がらなかったと思うだろう」。
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落下傘でビルマの村に降下したシアーズたちは、現地人の案内でジャングルの中を進み、5月
13日に日本軍の要人を乗せた列車が橋を通過するとの情報をキャッチしていた。
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5月12日の期日までに橋を完成させることで英軍の威信を示すことが出来るとの思いに囚
われたニコルスン大佐は、部下の将校たちにも労役に就いてもらい、病棟から軽傷の患者たちも連れ出して働かせた。
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シアーズたちは巡回中の日本兵たちと遭遇したが、一人残らず始末した。その際、足を負傷し
たウォーデン少佐は死を覚悟して、自分を置いて行くように命じた。シアーズ 「死に方の事しか考えていない。人間らしく生きる事が一番大切なのに…」。
ウォーデン少佐は担架に乗せられた。
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ついに橋が完成した。ニコルスン大佐が、‟この橋は英軍の兵士たちによって設計され建設さ
れた” との看板を柱に打ち付けた。その様子を山の上からウォーデン少佐たちが眺めており、橋の爆破計画を立てていた…。
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『戦場にかける橋』 予告編
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◆ 主な出演者など
・原作者のピエール・ブール(フランス人)は
日本軍の捕虜となった経験があった。
「猿の惑星」(1963年出版)の作者としても有名。 |
・製作者のサム・スピーゲルは、
パリからロンドンへ向かう飛行機の中で原作を読み、と
んぼ返りでピエール・ブールと会談し、映画化権を取得した。
(右の写真)サム・スピーゲル(左)、デヴィッド・リーン監督
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・『真昼の決闘』のカール・
フォアマンが脚本を執筆したが、リーン監督が気に入らない箇所があり、『陽のあた
る場所』の
マイケル・ウィルソンとリーン監督が書き直した。フォアマンとウィルソンは‟赤
狩り”でハリウッドから追放されていたので、原作者のピエール・ブールが脚本家としてクレジットされ、アカデミー賞脚色賞を受賞したが、ブールは
英語が出来なかった。(左の写真)撮影時のデヴィッド・リーン監督 |
・1984年、全米脚本家組合の働きかけで、カール・フォアマンとマイケル・ウィルソンに
オスカー像が贈られることとなったが、既に2人ともこの世を去っていた。
(右の写真)撮影時のデヴィッド・リーン監督 |
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・早川雪洲は、妻の青木鶴子に「良い作品になりそうだか
ら」
と背中を押されての出演だった。
ジェフリー・ホーンが演じたジョイス役は、モンゴメリー・クリフトが候補
で、もう少し重要な役となるはずだったが、モンティの精神状態が芳しくなく、起用が見送られたという。
(右の写真)ウィリアム・ホールデン、ジャック・ホーキンス |
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・アカデミー賞では、作品賞、監督賞、主演男優賞(ア
レック・ギネス)、脚色賞、撮影賞、作曲賞、編集賞の7部門で受賞。助演男優賞にノミネートされていた早川雪洲だけが受賞を逃すという残念
な結果となった。
(左の写真)アカデミー賞授賞式にて。左から、サム・スピーゲル、ゲーリー・クーパー(作品賞のプレゼンター)、デヴィッド・リーン監督 |
・AFI(アメリカ映画協会)が1998年に選定した
「アメリカ映画100年ベスト100」で第13位に。
BFI(英国映画協会)が1999年に選定した「20世紀の英国映画ベスト100」で第11位に。
(右の写真)アレック・ギネス、早川雪洲 |
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