20世紀・シネマ・パラダイス

Scandalbar

狩り時代のハリウッド (3)

悲劇の拡大 〜 ブラック・リストと聴聞会の再開

Scandalbar

 ハリウッドにおける‟赤狩り”は、10名のスケープゴート(=‟ハリウッド・テン”)を出しただけでは治まらなかった。

 ソ連の核実験成功(1949年8月)、中華人民共和国の成立(1949年10月)等、共産主義の脅威・勢力が増大するなか、保守派最大の圧力団体の1つである「米国在郷軍人会」が独自のブラック・リストを公開(1949年した。
 
更に、マッカーシー上院議員の「国務省には共産主義者がはびこっている」との発言(1950年2月)や、朝鮮戦争の勃発 (1950年6月)等が拍車をかけ、‟赤狩り”はエスカレートしていき、ハリウッドでも再び猛威を振るった。
 (右の写真)
ジョセフ・マッカーシー上院議員。下院非米活動委員会と共に、‟赤狩り”(=マッカーシズム)を推進した。ハリウッドの‟赤狩り”には直接関わっていない。
Joseph_McCarthy


1950年6月22日 Red Channels(ブラック・リスト)の出版

 右派の週刊誌「Counterattack (反撃)」が、‟Red Channels”というパンフレットを出版。映画、ラジオ、TV等の業界人151名を「赤いファシストとそのシンパ」 であると報道した。
 パンフレットの発行者の中には元FBI(連邦捜査局)の人物がおり、FBIが情報源であるとも噂された。
Red_Channels



Red Channels”に名前を挙げられた主な人物

Edward_G._Robinson
Orson_Welles
John_Garfield-2
エドワード・G・ロビンソン オーソン・ウェルズ ジョン・ガーフィールド

Lee_J._Cobb.
Jose_Ferrer-2
Judy_Holliday-2
リー・J・コッブ ホセ・フェラー ジュディ・ホリデイ

Burgess_Meredith バージェス・メレディス
 『廿日鼠と人間』(1939年/監督:ルイス・マイルストーン、『G・I・ジョウ』(1945年/監督:ウィリアム・A・ウェルマン等に出演。一時期、ポーレット・ゴダードと結婚していた。『イナゴの日』(1975年)と『ロッキー』(1976年)で2度アカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。
 (左の写真)『ロッキー』出演時

Burl_Ives バール・アイヴス
 フォーク・ソングの歌手として人気を博し、俳優業にも進出。『エデンの東』(1955年)、『熱いトタン屋根の猫』(1958年)等に出演。『大いなる西部』(1958年)でアカデミー賞助演男優賞を受賞した。
 (左の写真)『大いなる西部』出演時

Joseph_Losey
ジョセフ・ロージー(監督)
 ”ハリウッド・テン”のエイドリアン・スコット製作(ノンクレジット)の『緑色の髪の少年』(1948年)等を監督。ブラック・リストに載った後は欧州へ渡り、カンヌ国際映画祭のパルム・ドール大賞受賞作『恋』(1970年)、『暗殺者のメロディ』(1972年)、『パリの灯は遠く』(1975年)等を撮った。

Ruth_Gordon ルース・ゴードン(脚本家・俳優)
 夫と執筆した『二重生活』(1947年)、『アダム氏とマダム』(1949年)、『パットとマイク』(1952年)で3度アカデミー賞にノミネートされた。女優としては、『サンセット物語』(1965年)でアカデミー賞助演女優賞に初ノミネートされ、『ローズマリーの赤ちゃん』(1968年)で同賞を受賞した。
 (左の写真)『ローズマリーの赤ちゃん』出演時

Samson_Raphaelson
サムソン・ラファエルソン(脚本家)
 エルンスト・ルビッチ監督の『陽気な中尉さん』(1931年)、『極楽特急』(1932年)、『街角 桃色の店』(1940年)、『天国は待ってくれる』(1943年)アルフレッド・ヒッチコック監督の『断崖』(1941年)等を執筆した。

Arthur_Laurents
アーサー・ローレンツ (脚本家)
 『ロープ』(1948年)『ウエストサイド物語』(1961年)、『追憶』(1973年)、『愛と喝采の日々』(1977年)等を執筆。
 同性愛者で、『ロープ』に出演したファーリー・グレンジャーは恋人だった。

Dashiell_Hammett
ダシール・ハメット(作家)
 ハードボイルド小説の第一人者。代表作は「血の収穫」(1929年)、「マルタの鷹」(1930年)、「ガラスの鍵」(1931年)、「影なき男」(1934年)等。

Lillian_Hellman
リリアン・ヘルマン (劇作家・脚本家)
 元々は舞台劇だが、ウィリアム・ワイラー監督によって映画化された作品を数多く執筆。また、共産主義のプロパガンダ映画と疑われた代表的な作品の1つ『電撃作戦』(1943年/監督:ルイス・マイルストーンの原作者・脚本家でもある。

 ダシール・ハメットとリリアン・ヘルマンはパートナーであり、ヘルマンの自伝的小説を映画化した『ジュリア』(1977年/監督:フレッド・ジンネマンでは、ハメットをジェイソン・ロバーズ、ヘルマンをジェーン・フォンダが演じた。

/Arthur_Miller
アーサー・ミラー (作家) 
 代表作は、映画化もされた「セールスマンの死」、「荒馬と女」等。マリリン・モンローの3番目の夫としても有名。

Leonard_Bernstein
レナード・バーンスタイン (作曲家・指揮者)
 アメリカを代表する音楽家の1人。
 映画『波止場』(1954年)、ミュージカル劇「ウエストサイド物語」(1957年)等の音楽を作曲。

 ‟Red Channels”は何回か改訂され、さらに160名超、合計で300名超の業界人が名前を挙げられた。同誌に載った人が皆共産主義者であったかは定かでないが、ほとんどの人がキャリアを大きく損なわれた事は確かである。

Charles_Chaplin-7
Luis_Bunuel.
Frances_Farmer.
チャールズ・チャップリン ルイス・ブニュエル フランシス・ファーマー

Kim_Hunter-2 Richard_Attenborough Carl_Foreman
キム・ハンター リチャード・アッテンボロー カール・フォアマン

Dorothy_Comingore-2
ドロシー・カミンゴア
 『市民ケーン』(1941年)でヒロインを演じた。「非友好的証人」として最初に召喚された19人の1人リチャード・コリンズと夫婦(1939〜1946年離婚)だった。自身が召喚された際に証言を拒否して‟”と断定された。その後、売春の容疑で逮捕されたが、これは警察による嫌がらせだったとの説が有力。晩年はアルコール依存症と診断され、コリンズとの間で授かった2人の子供の親権を剥奪された。

Eddie_Albert-3
エディ・アルバート
 『ローマの休日』(1953年)でアカデミー賞助演男優賞にノミネート。聴聞会で証言して‟”でないと断定された。他の共産主義者の名前を証言せずに‟”ではないとのお墨付きを得られた稀な人物の1人だった。
 (左の写真)『ローマの休日』出演時

Lee_Grant
リー・グラント
 銀幕デビュー作『探偵物語』(1951年)でカンヌ国際映画祭の女優賞を受賞し、オスカー候補にもなった。‟赤狩り”終焉後、『夜の大捜査線』(1967年)で10数年ぶりに銀幕復帰し、『シャンプー』(1975年)でアカデミー賞の助演女優賞を受賞。授賞式には、着る機会がなかったというウエディング・ドレス姿で登場した。
 (左の写真)アカデミー賞授賞式にて

Jules_Dassin
ジュールズ・ダッシン (監督・脚本家・俳優)
 セミ・ドキュメンタリー・タッチの傑作『裸の町』(1948年)を監督。ブラック・リストに載った後、欧州へ渡り、ギリシャで撮った『日曜はダメよ』(1960年)でアカデミー賞の監督賞、脚本賞にノミネートされた。

John_Cromwell
ジョン・クロムウェル(監督・俳優)
 
『痴人の愛』(1934年)、『ゼンダ城の虜』(1937年)、『君去りし後』(1944年)等を監督。1944年〜1946年まで映画監督組合の理事長を務めた。
 息子は俳優のジェームズ・クロムウェル。

Michael_Wilson
マイケル・ウィルソン (脚本家)
 
『陽の当たる場所』(1951年)でアカデミー賞を受賞。ブラック・リストに載った後、欧州へ渡り、‟ハリウッド・テン” のハーバート・ビーバーマンが監督した『地の塩』(1954年)等の脚本を執筆。ゴーストライターとして執筆した『友情ある説得』(1956年)『戦場にかける橋』(1957年)『アラビアのロレンス』(1962年)がアカデミー賞にノミネートされた。
 ‟赤狩り”終焉後の1964年に帰国し、『猿の惑星』(1968年)等の脚本を執筆した。1984年、マイケル・ウィルソンとカール・フォアマンの未亡人に、『戦場にかける橋』のオスカー像が贈呈された。

Ian_McLellan_Hunter
イアン・マクレラン・ハンター (脚本家)
 ‟ハリウッド・テン”のダルトン・トランボに名義を貸した『ローマの休日』(1953年)でアカデミー賞を受賞。その後、本人もブラック・リストに載った。
 1993年、ダルトン・トランボの未亡人にオスカー像が贈呈されたが、既にイアン・マクラレン・ハンターも亡くなっており、彼の息子がオスカー像の引き渡しを拒否したため、トランボの未亡人には新品のオスカー像が贈呈された。 


1951年3月21日〜 下院非米活動委員会聴聞会の再開

 下院非米活動委員会(HUAC)による‟赤狩り”の聴聞会が、3年半ぶりに再開された。召喚された証人たちは、今度は憲法修正第五条を根拠とする自己負罪拒否権自己に不利益な証言を強要されないという権利)を盾にしたが、証言を拒めば檜舞台から追放さた。聴聞会は1953年まで開催された。

 
既述の通り、1947年に召喚されたが証言を求められなかった8名の内、3名が再召喚された。また、‟ハリウッド・テン”の1人エドワード・ドミトリクは自ら求めて証人となり、共産主義者の名前を証言した。

 エリア・カザンスターリング・ヘイドン、バール・アイヴスなどが共産主義者の名前を証言した。
 (右の写真)聴聞会でのスターリング・ヘイドン
Sterling_Hayden

John_Garfield  ジョン・ガーフィールド、リリアン・ヘルマンなどが証言を拒否した。
 (左の写真)聴聞会でのジョン・ガーフィールド

 
また、リー・J・コッブのように、1度は証言を拒否して仕事を干されたが、2年後に証言して檜舞台に復帰した人もいた。


< 前ページ >  <次ページ >

HOME