20世紀・シネマ・パラダイス

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Veronica_Lake

ヴェロニカ・レイク

Veronica Lake

 1922-1972 (アメリカ)


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   代表作

Sullivan's_Travels  サリヴァンの旅
  Sullivan's Travels
  (1941年/アメリカ)
I_Married_a_Witch
 奥様は魔女
  I Married A Witch
  (1942年/アメリカ)
This_Gun_for_Hire
 拳銃貸します
 This Gun for Hire
 (1942年/アメリカ)
The_Blue_Dahlia
 青い戦慄
 The Blue Dahlia
 (1946年/アメリカ)

    右目が隠れるヘアスタイルがトレードマークに

 ・1922年、ニューヨーク生れ。本名は Constance Frances Marie Ockleman 。9歳の時に、石油タンカー船で働いていた父親が事故で爆死。母親が再婚してからは、義父の姓をとって Constance Keane  と名乗るようになった。
 1938年、一家はビバリーヒルズに引っ越し、彼女は演劇学校に通うようになった。

 ・RKO社のオーディションを受ける友人に同行したのがきっかけで、1939年にエキストラとして銀幕デビュー。その後、数本の作品に端役で出演した。

 ・40年に映画の美術マン、ジョン・S・デトリーと結婚。41年に長女を授かり、43年には長男を授かったが、長男は生後間もなく亡くなった。43年に離婚。

 ・パラマウント社の 『空の要塞』 (1941年) のスクリーン・テストの際、髪の毛が邪魔で何度も手で払いのけ、チャンスを台無しにしたと思ったが、製作者のアーサー・ホーンブロウ・ジュニアがその仕草を面白がり、役に就いた。
  * アーサー・ホーンブロウ・ジュニア …  『ガス燈』 (1944年)、『情婦』 (1957年) 等の製作者。
 映画がヒットし、女優としてブレイク。右目が隠れるヘアスタイルは彼女のトレードマークになった。尚、従前は Constance Keane として活動していたが、同作よりヴェロニカ・レイクと名乗るようになった。
  (右の写真) 『空の要塞』 左から、レイ・ミランド、コンスタンス・ムーア、ヴェロニカ・レイク、
   ウィリアム・ホールデン
 
I_Wanted_Wings

 ・コメディの傑作 『サリヴァンの旅』 (1942年/監督:プレストン・スタージェス に出演後、パラマウント社のオールスター・キャスト作品 『Star Spangled Rhythm(1942年) にカメオ出演。
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Star_Spangled_Rhythm
『サリヴァンの旅』 ジョエル・マクリー
Star Spangled Rhythm 』 (カラー作品)
ポーレット・ゴダード(左)、ドロシー・ラムーア (中央)と
  * 右上の写真を見ての通り、ヴェロニカ・レイクは背が低く、身長は約150cmだったという。

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 ・グレアム・グリーン原作のフィルム・ノワール作品 『拳銃貸します』 (1942年) に出演。殺し屋役のアラン・ラッドの出世作。ラッドとは、『ガラスの鍵』 (1942年)、『青い戦慄』 (1946年)、『Saigon (1948年) でも共演した。
  (左の写真) 『拳銃貸します』 アラン・ラッド(左)、ロバート・プレストン(右)と

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So_Proudly_We_Hail!
『奥様は魔女』 (1942年/監督:ルネ・クレール
フレドリック・マーチ
So Proudly We Hail ! 』 (1943年)
クローデット・コルベール(左)、ポーレット・ゴダード(中央)と

 ・第二次世界大戦中、兵器工場で働く女性が、機械に髪の毛を巻き込まれる事故が多発。
 長い髪の毛は、工場で働く際には危険であるとの宣伝写真のモデルを務めた。(右の写真)
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Andre_De_Toth
 ・44年、ハンガリー出身の映画監督アンドレ・ド・トスと再婚。48年に女の子を授かった。
 トスが自家用飛行機を所持しており、彼女も操縦士の免許を取得。ニューヨーク〜ロスを単独飛行した。52年に離婚。
 (左の写真) 2番目の夫アンドレ・ド・トス監督と
 * アンドレ・ド・トス … グレゴリー・ペック主演 『拳銃王』 (1950年) で、アカデミー賞原案賞にノミネート。B級西部劇や
  ホラー映画 『肉の蝋人形』 (1953年) 等を監督した。


 ・アラン・ラッドと再共演した 『青い戦慄』 (1946年)、ジョエル・マクリーと再共演し、夫のアンドレ・ド・トスが監督した 『復讐の二連銃』 (1947年) 等に出演。
 この頃から飲酒量が多くなり、業界内での評判が悪くなっていた。
 48年、パラマウント社との契約を打ち切られた。
  (右の写真) アラン・ラッドとの最後の共演作 『Saigon 』 (1948年)
Saigon

 ・20世紀社FOX社で、夫が監督した 『Slattery's Hurricane(1949年) に出演。その後、売れなくなった俳優や、メジャー会社から干された俳優の駆け込み寺であったB級会社 Lippert Pictures 社で、『Stronghold (1951年) に出演。

 ・1951年、自宅に国税庁の職員が押しかけてくるなど、自己破産同然の状況となり離婚。心機一転、ニューヨークへ行き、舞台やTVで活動。55年、作詞家と3度目の結婚をしたが、59年に離婚。この時期、泥酔し、風紀を乱したかどで何度も逮捕されたという。

 ・1962年、マンハッタンのホテルのカクテル・バーでウエイトレスをしていることが新聞で報じられた。話題となり、15年ぶりの映画 『Footsteps in the Snow (1966年) 出演となったが、映画の方は話題にならなかった。
   新聞記事を読んだマーロン・ブランドが、1,000ドルの小切手を彼女に送った。彼がまだ駆け出しの頃、
    ヴェロニカ・レイクのアバンチュールの相手だった時期があったという。

Flesh_Feast
  ・1969年、自伝を出版。宣伝のためイギリスへ行き、舞台に復帰。
 自伝で得た収入により、ホラー映画 『Flesh Feast (1970年) を製作 (共同)・主演。最後の映画となった。
 72年、英国海軍の大尉と4度目の結婚をしたが1年あまりで離婚。アメリカへ帰国した。
   (左の写真) 『Flesh Feast

  ・1973年50歳で他界。過度の飲酒による肝硬変と急性腎障害であった。

 ・ 彼女の母親は娘よりも長生きした。ヴェロニカ・レイクが映画スターとなってからは疎遠になっていたようで、48年には、生活費の支援が少ないと娘を訴えて いる。その母親によると、ヴェロニカ・レイクは子供の頃に統合失調症と診断され、治療の一環として演劇学校に通っていたという。
 2番目の夫アンドレ・ド・トスは、ヴェロニカ・レイクは横暴な母親によって精神的なダメージを受けていたとしている。
 子供の頃に父親が事故で亡くなるなど、心に痛手を負っていたことが、晩年の荒んだ生活と関係があるのかもしれない。

 ・『L.A.コンフィデンシャル』 (1997年) で、キム・ベイシンガーがヴェロニカ・レイクそっくりの娼婦 (勿論、長い髪の毛で右目を隠して登場) を演じてアカデミー賞助演女優賞を受賞した。

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