20世紀・シネマ・パラダイス
ヴェロニカ・レイク
Veronica Lake
1922-1973 (アメリカ)
◆
代表作
サリヴァンの旅
Sullivan's Travels
(1941年/アメリカ)
拳銃貸します
This Gun for Hire
(1942年/アメリカ)
奥様は魔女
I Married A Witch
(1942年/アメリカ)
青い戦慄
The Blue Dahlia
(1946年/アメリカ)
◆
右目が隠れるヘアスタイルがトレードマークに
・
1922年
、ニューヨーク生れ。本名は
Constance Frances Marie Ockleman
。9歳の時に、石油タンカー船で働いていた父親が事故で爆死。母親が再婚してからは義父の姓をとって
Constance Keane
と名乗るようになった。1938年、一家でビバリーヒルズに引っ越し、彼女は演劇学校に通い始めた。
・RKO社のオーディションを受ける友人に同行したのがきっかけで、1939年にエキストラとして銀幕デビュー。その後、数本の作品に端役で出演した。
・1940年、映画の美術マン、ジョン・S・デトリーと結婚。1941年に長女を授かり、1943年には長男を授かったが、長男は生後間もなく亡くなった。1943年に離婚。
*
ジョン・S・デトリー … 『
Bitter Sweet
』(1940年)でアカデミー賞の室内装置賞(カラー部門)にノミネートされた。
(右の写真)最初の夫
ジョン・S・デトリーと
・『空の要塞』
(1941年)
のスクリーン・テストを受けた際、髪の毛が邪魔で何度も手で払いのけたため、本人はチャンスを台無しにしたと思ったが、製作者のアーサー・ホーンブロウ・ジュニアがその仕草を面白がり、役を得ることが出来たという。
(左の写真)
『空の要塞』 左から、
レイ・ミランド
、コンスタンス・ムーア、ヴェロニカ・レイク、
ウィリアム・ホールデン
*
アーサー・ホーンブロウ・ジュニア … 『ガス燈』(1944年)、
『情婦』
(1957年)等の製作者。
・『空の要塞』がヒットし、女優としてブレイク。右目が隠れるヘアスタイルは彼女のトレードマークになった。尚、従前は
Constance Keane
として活動していたが、同作よりヴェロニカ・レイクと名乗るようになった。
(右の写真)『空の要塞』ウィリアム・ホールデンと
・コメディの傑作『サリヴァンの旅』
(1942年/監督:
プレストン・スタージェス
)
に出演後、パラマウント社のオールスター・キャスト作品『
Star Spangled Rhythm
』
(1942年)
にカメオ出演。右下の写真を見ての通り、彼女は背が低く、身長は約150cmだったという。
『サリヴァンの旅』(1942年)
ジョエル・マクリー
と
『
Star Spangled Rhythm
』(カラー作品)
ポーレット・ゴダード
(左)、ドロシー・ラムーア (中央)と
・グレアム・グリーン原作のフィルム・ノワール作品『拳銃貸します』
(1942年)
に出演。同作で殺し屋を演じてブレイクした
アラン・ラッド
とは、『ガラスの鍵』
(1942年)
、『青い戦慄』
(1946年)
、『
Saigon
』
(1948年)
でも共演した。
『拳銃貸します』(1942年)
アラン・ラッド(左)、ロバート・プレストンと
『ガラスの鍵』(1942年)
ブライアン・ドンレヴィ(左)、アラン・ラッドと
『奥様は魔女』(1942年/監督:
ルネ・クレール
)
フレドリック・マーチ
と
『
So Proudly We Hail !
』(1943年)
クローデット・コルベール
(左)、ポーレット・ゴダード(中央)と
・第2次世界大戦中、兵器工場で働く女性が機械に髪の毛を巻き込まれる事故が多発。
長い髪の毛は工場で働く際には危険であるとの宣伝写真のモデルを務めた。
(右の写真)
・1944年、ハンガリー出身の脚本家・映画監督アンドレ・ド・トスと再婚。1948年に女の子を授かった。
トスが自家用飛行機を所持しており、彼女も操縦士の免許を取得。ニューヨーク〜ロスを単独飛行した。1952年に離婚。
(左の写真)2番目の夫アンドレ・ド・トス監督と
*
アンドレ・ド・トス …
グレゴリー・ペック
主演『拳銃王』(1950年)でアカデミー賞原案賞にノミネート。B級西部劇やホラー映画『肉の蝋人形』(1953年)等を監督した。
『初恋時代』(1945年)
リリアン・ギッシュ
(左)と
『青い戦慄』(1946年)
アラン・ラッドと
『復讐の二連銃』(1947年/監督:
アンドレ・ド・トス)
ジョエル・マクリーと
『
Saigon
』(1948年)
アラン・ラッドと
・1940年代後半頃から飲酒量が多くなり、業界内での評判が悪くなっていたという。1948年、パラマウント社との契約を打ち切られた。
20世紀社FOX社で夫が監督した『
Slattery's Hurricane
』
(1949年)
に出演。その後、売れなくなった俳優やメジャー会社から干された俳優の駆け込み寺だったB級会社「Lippert Pictures」社で『
Stronghold
』
(1951年)
に出演した。
(右の写真)『
Slattery's Hurricane
』
リチャード・ウィドマーク
と
・1951年、自宅に国税庁の職員が押しかけてくるなど、自己破産同然の状況となり、アンドレ・ド・トスと離婚。
心機一転、ニューヨークへ行き、舞台やTVで活動。1955年、作詞家と3度目の結婚をしたが、1959年に離婚。この時期、泥酔して風紀を乱したかどで何度も逮捕されたという。
(左の写真)『サリヴァンの旅』(1942年)出演時
・1962年、マンハッタンのホテルのカクテル・バーでウエイトレスをしていることが新聞で報じられた。この記事が話題となり、実に15年ぶりの映画『
Footsteps in the Snow
』
(1966年)
への出演となったが、映画の方は話題にならなかった。
(右の写真)『拳銃貸します』(1942年)出演時
!
新聞記事を読んで彼女の窮状を知った
マーロン・ブランド
から、1,000ドルの小切手が送られて来たという。ブランドがまだ駆け出しの頃、アバンチュールの相手だったとか。
・1969年、自伝を出版。宣伝のためイギリスへ行き、舞台に復帰。自伝で得た収入により、ホラー映画『
Flesh Feast
』
(1970年)
を製作
(共同)
・主演。最後の映画となった。
(左の写真)『
Flesh Feast
』
・1972年、英国海軍の大尉と4度目の結婚をしたが、1年あまりで離婚。アメリカへ帰国した。
・
1973年
、
50歳
で他界。過度の飲酒による肝硬変と急性腎障害だった。
・ 彼女の母親の方が長生きした。ヴェロニカ・レイクが映画スターとなってからは疎遠になっていたようで、1948年には、生活費の支援が少ないと娘を訴えて いる。その母親によると、ヴェロニカ・レイクは子供の頃に統合失調症と診断され、治療の一環として演劇学校に通い始めたという。
(右の写真)『奥様は魔女』(1942年)出演時
・2番目の夫アンドレ・ド・トスによれば、ヴェロニカ・レイクは横暴な母親によって精神的なダメージを受けていたという。
・子供の頃に父親が事故で亡くなるなど、心に痛手を負っていたことが、晩年の荒んだ生活と関係があるのかもしれない。
(左の写真)『青い戦慄』(1946年)出演時
・『L.A.コンフィデンシャル』
(1997年)
で、キム・ベイシンガーがヴェロニカ・レイクそっくりの娼婦
(勿論、長い髪の毛で右目を隠して登場)
を演じてアカデミー賞助演女優賞を受賞。往時を知らない若い映画ファンの間でもヴェロニカ・レイクが話題になった。
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