20世紀・シネマ・パ
ラダ
イス
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レディ・イヴ
The Lady Eve
監督:プレストン・スタージェス
(1941年/アメリカ)
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◆ コメディの名手プレストン・スタージェス監
督の代表作
蛇学者のチャーリー・パイクは、
南米アマゾンでの探検を終えて、帰国のため豪華客船に乗船した。その様子を、先に乗船していた詐欺師の父娘ハ
リントンとジーンが眺めていた。「い
いカモが来た…」。 |
レストランで蛇の本を読書中のチャーリー。大金持ちの御曹司である彼とお近づきになろうと、女性たちが熱い視線を送っていたが、蛇一筋で世事には疎い
チャーリーは、彼女たちの視線と笑顔の理由がトンと分からない。そんなチャーリーの様子をジーンが手鏡で観察していた。 |
チャーリーが席を立った。ジーンが足を引っかけ、チャーリーが転んだ。ジーンはヒールが壊
れたと言って、チャーリーに部屋まで案内させた。さすがは詐欺師、まんまとチャーリーとお近づきになった。 |
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チャーリーはハリントンとカード・ゲームで対戦。詐欺師の常套手段、ハリントンは故意に
600ドル負けた。
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チャーリーとジーンは2人きりになった。「1年アマゾンにいた男には、君は刺激的過
ぎる…」。チャーリーの部屋で蛇を見たジーン
が悲鳴をあげて逃げ出し、チャーリーは後を追って再び彼女の部屋へ…。
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チャーリーはジーンの虜となった。翌朝、チャーリーはバラの花を
贈り、彼女を誘い出した。
「君と
暮らせたら幸せだろうなぁ…」。
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詐欺師の父娘に誤算が生じた。ジーンも本気でチャーリーに恋して
しまったのだ。彼女は父親に釘を刺した。「600
ドル取り返すだけよ…。彼からカ
モらないでよ」。
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チャーリーとハリントンは前夜に引き続きカードで対戦。あの手この手のイカサマでカモろう
とするハリントン。それ
を
阻止しようとするジーン…。チャーリーはジーンと結婚したい旨をハリントンに話し、ジーンには改めてプロポーズした。
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翌朝。チャーリーのお目付け役のマグジーが
パーサーを呼び出し、詐欺師が乗船していると訴えていた。同じ頃、ジーンは父親に祝福され、自分たちが詐欺師だと打ち明けるのは下船してからと諭されてい
た。
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チャーリーはパーサーから封筒を手渡された。中にはハリントン父娘の写真が。詐欺師の手配
書であった…。
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チャーリーはジーンに封筒を差し出した。ジーンは下船したら全てを打ち明けるつもりだった
と弁明したが、チャーリーは前夜から2人の正
体を知らされていたと虚勢を張った。ジーンは船室へ戻り、泣き崩れた。
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ニューヨークへ着き、数日経ったある日。父親と競馬場へ来ていた
ジーンは、偶然に詐欺
師仲間のパーリーと再会した。
聞けば、パーリーはイギリス人貴族と称し、パイク家に出入りしていると言う。
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自分を袖にしたチャーリーへの仕返し
を思い立っ
たジーンは、貴族の姪のイヴと称し、パイク家に乗り込んでいった。
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チャーリーはイヴを見て驚いた。「どこかでお会いしたことが?」。しかし、
イヴに扮し
たジーンはシラを突き通し、チャーリーは狐につままれたような気分に。
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お目付け役のマグジーは、イヴとジーンが同一人物だと信じて疑わず、チャーリーを諭したが、チャー
リーはイヴに魅かれていっ
た。
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ハネムーンの汽車の中。イヴに扮したジーンの仕返しが始まった
が…。
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『レディ・イヴ』 予告編
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◆ 主な出演者など
・モンクトン・ホフの原案「Two Bad Hats」
をもとに、プレストン・スタージェスが脚本を執筆。チャーリーが蛇学者という妙な設定になっているのは、旧約聖書のアダムとイヴの話を基にしているから。
映画の冒頭で、ジーンがかじりかけの林檎をチャーリーの頭めがけて落とすシーンも。
(右の写真)左から、ヘンリー・フォンダ、バーバラ・スタンウィック、プレストン・スタージェス監督
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・オープニングとエンディングに登場する蛇のアニメーションも秀逸な出来栄え。
人気アニメ短編映画『ルーニー・テューンズ』シリーズを手掛けたレオン・シュレジンガーのスタジオが製作した。
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・スタンウィックが纏った衣装も大評判となり、後にハリウッドの衣装デザインの第一人者と
なるイーディス・ヘッドの出世作となった。
アカデミー賞では、モンクトン・ホフが原案賞にノミネートされた。(衣装デザイン賞はまだ創設されていなかった)
(左の写真)スタンウィックとフォンダ。後ろはプレストン・スタージェス監督
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◆ ピック・アップ … プレストン・スタージェス監督
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Preston Sturges 1898
-1959(アメリカ)
・30歳の時にブロードウェイ劇「Hotbed」(1928年)に役者として出演。その
後、劇作家に転身し、後に映画化もされた「紳士酒場」(1929年)が
ヒットした
ことにより、映画の脚本にも携わるようになった。
スペンサー・トレイシー主演の
『力と栄光』(1933年)、ウィリア
ム・ワイラー監督の『お人好しの仙女』(1935年)等の脚本を執筆した。
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・監督デビュー作『偉大なるマッギンティ』(1940
年)をヒットさせ、アカデミー賞脚本賞を受賞。監督3作目の『レディ・イヴ』(1941年)、
4作目の『サリヴァンの旅』(1942年)と、自身の名を映画史に残すこととなるコメディの傑作を発表。 |
・グリフィスやチャップリンなど、自ら脚本と監督をこなした映画人はいたが、脚本家から監督になっ
て
成功したのは彼が最初であり、同じパラマウント社で活躍していた脚本家のビリー・ワイルダーが
監督業へ進出した要因の1つともなった。
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・『結婚五年目(パーム・ビーチ・ストーリー)』(1942
年)、『モーガンズ・クリークの奇跡』(1944年)等
をヒットさせたが、次第に精彩を欠き、映画監督として息長く活躍することは出来なかった。
(右の写真)『ハロルド・ディドルボックの罪』(1947年)撮影時。
ハロルド・ロイド フランシス・ラムスデンと |
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・1950年代にはハリウッドでの仕事を失くし、古巣のブロードウェイでフランスの名作映
画『女だけの都』(1935年)を
自ら脚色した「Carnival in Flanders」(1953年)を監督したが、
僅か5日間で公演終了。再起をかけて、フランスで『トンプソン少佐の手帳』(1955年)を監督したのが
最後の仕事となった。
・1959年、60歳で他界。 |
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