20世紀・シネマ・パ ラダ イス

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       レディ・イヴ
        The Lady Eve
         監督:プレストン・スタージェス
        (1941年/アメリカ)
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  コメディの名手プレストン・スタージェス監 督の代表作

 蛇学者チャーリー・パイクは、 南米アマゾンでの探検を終えて、帰国のため豪華客船に乗船した。その様子を、先に乗船していた詐欺師の父娘ハ リントンジーンが眺めていた。い いカモが来た…」。

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  レストランで蛇の本を読書中のチャーリー。大金持ちの御曹司である彼とお近づきになろうと、女性たちが熱い視線を送っていたが、蛇一筋で世事には疎い チャーリーは、彼女たちの視線と笑顔の理由がトンと分からない。そんなチャーリーの様子をジーンが手鏡で観察していた。
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 チャーリーが席を立った。ジーンが足を引っかけ、チャーリーが転んだ。ジーンはヒールが壊 れたと言って、チャーリーに部屋まで案内させた。さすがは詐欺師、まんまとチャーリーとお近づきになった。

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 『レディ・イヴ』 予告編


  主な出演者など

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 ・ジーン、イヴ役 … バーバラ・スタンウィック Barbara Stanwyck
  ・チャーリー・パイク役 … ヘンリー・フォンダ Henry Fonda
 ・ハリントン役 … チャールズ・コバーン Charles Coburn
 ・マグジー役 … ウィリアム・デマレスト William Demarest


 ・モンクトン・ホフの 「Two Bad Hats 」 をもとに、プレストン・スタージェスが脚本を執筆。
 旧約聖書のアダムとイヴの話を基にしており、映画の冒頭で、ジーンがかじりかけの林檎をチャーリーの頭めがけて落とすシーンも。
 (右の写真) 左から、ヘンリー・フォンダ、バーバラ・スタンウィック、
  プレストン・スタージェス監督

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 ・オープニングとエンディングに登場する蛇のアニメーションも秀逸な出来栄え。
 人気アニメ短編映画 『ルーニー・テューンズ』 シリーズを手掛けたレオン・シュレジンガーのスタジオが製作した。

 ・チャーリー役はジョエル・マク リー、フレッド・マクマレー、ジーン役はマデリーン・キャロルポーレット・ゴダードなども候補だった。
 ヘンリー・フォンダとバーバラ・スタンウィックは、『美人は人殺しがお好き』 (1938年)、『新 妻はお医者さま』 (1941年) でも共演した。
 スタンウィックはフォンダのお気に入りの女優であったと言われている。
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 ・スタンウィックが纏った衣装も大評判となり、後にハリウッドの衣装デザインの第一人者と なるイーディス・ヘッドの出世作となった。
 アカデミー賞ではモンクトン・ホフが原案賞にノミネートされた。
 (衣装デザイン賞はまだ創設されていなかった)
 (左の写真) スタンウィックとフォンダ。後ろはプレストン・スタージェス監督

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  ピック・アップ … プレストン・スタージェス監督

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 Preston Sturges  1898-1959 (アメリカ)

 ・30歳の時にブロードウェイ劇 「Hotbed(1928年) に役者として出演。その後、劇作家に転身し、後に映画化もされた 「紳士酒場」 (1929年) が ヒットした ことにより、映画の脚本にも携わるようになった。スペンサー・トレイシー主演の 『力と栄光』 (1933年)ウィリア ム・ワイラー監督の 『お人好しの仙女』 (1935年) 等の脚本を執筆した。
 ・監督デビュー作 『偉大なるマッギンティ』 (1940 年) をヒットさせ、アカデミー賞脚本賞を受賞。
 監督3作目の 『レディ・イヴ』 (1941年)、4作目の 『サリヴァンの旅』 (1942年) と、自身の名を映画史に残すこととなるコメディの傑作を発表。
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『レディ・イヴ』 撮影時。
ヘンリー・フォンダ(左)、バーバラ・スタンウィックと
『サリヴァンの旅』 撮影時。
ヴェロニカ・レイクジョエル・マクリー(中央)と
 ・グリフィスチャップリンなど、自ら脚本と監督をこなした映画人はいたが、脚本家から監督になり 成功したのは彼が最初であり、同じパラマウント社で活躍していた脚本家のビリー・ワイルダーが、 監督業へ進出した要因の1つともなった。

 ・その後も 『結婚五年目 (パーム・ビーチ・ストーリー)』 (1942年)、『モーガンズ・クリークの奇跡』 (1944年) 等 をヒットさせたが、次第に精彩を欠き、映画監督として息長く活躍することは出来なかった。
  (右の写真) 『ハロルド・ディドルボックの罪』 (1947年) 撮影時。ハロルド・ロイド
   フランシス・ラムスデンと

 ・1950年代にはハリウッドでの仕事場を失くし、古巣のブロードウェイでフランスの名作映画 『女だけの都』 (1935年) を自ら脚色した 「Carnival in Flanders(1953年) を監督し
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たが、僅か5日間で公演終了。再起をかけて、フランスで 『トンプソン少佐の手帳』 (1955年) を監督したのが最後の仕事となった。

 ・1959年60歳で他界。

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