20世紀・シネマ・パラダイス

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ウィリアム・ホールデン

William Holden

 
1918-1981(アメリカ)

 

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Love_Is_a_Many-Splendored_Thing-2
Picnic-2
『慕情』(1955年)
ジェニファー・ジョーンズ

『ピクニック』(1955年)
キム・ノヴァク


 ・映画製作会社「Toluca Productions」を設立し、自身が主役の『ロケット・パイロット』(1956年)を製作したが失敗作に。「Toluca Productions」は1作だけで解散したが、俳優業の方は順調で、大ヒット作『戦場にかける橋』(1957年/監督:デヴィッド・リーン等に出演。ハリウッドを代表する男優の1人となった。
The_Bridge_on_the_River_Kwai-2 The Key
『戦場にかける橋』(1957年)
ジャック・ホーキンス(中央)、ジェフリー・ホーン(右)と
『鍵』(1958年/監督:キャロル・リード
ソフィア・ローレンと
The_Horse_Soldiers /The_World_of_Suzie_Wong
『騎兵隊』(1959年/監督:ジョン・フォード
ジョン・ウェイン(後)、コンスタンス・タワーズと
スージー・ウォンの世界』(1960年)
ナンシー・クワンと


 ・1960年代に入ると作品に恵まれなくなり、俳優としてのキャリアは低迷した。
The_Lion
Paris_When_It_Sizzles
『ライオン』(1962年)
トレヴァー・ハワード(左)、キャプシーヌと

『パリで一緒に』(1964年)
オードリー・ヘップバーン
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Casino_Royale
『第七の暁』(1964年)
丹波哲郎(左)、キャプシーヌと
『007 カジノ・ロワイヤル』(1967年)


 ・『ライオン』(1962年)、『第七の暁』(1964年)で共演したフランス人モデル・女優のキャプシーヌと恋愛関係に陥った。交際は2年程続いたが、ホールデンの過度な飲酒が原因で破局したと言われている。
 1966年には、イタリアで飲酒運転をして、相手の運転手が死亡する事故を起こすなど、私生活の方も荒んでいたようだ。
 (右の写真)『ライオン』出演時。キャプシーヌと
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 ・『ワイルドバンチ』(1969年/監督:サム・ペキンパー)は、1960年代の代表作となった。
 甘いマスクで、「隣の男の子」というイメージで売り出されたホールデンも当時51歳。すっかり渋くなった容姿で、滅び行く男の悲哀を見事に演じて見せた。
 (左の写真) 『ワイルドバンチ』


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Wild_Rovers
『クリスマス・ツリー』(1969年/監督:テレンス・ヤング)
ブルック・フラーと
『夕陽の挽歌』(1971年/監督:ブレイク・エドワーズ
ライアン・オニール(左)と


 ・1971年、ブレンダ・マーシャルと離婚。その後、ホールデンが亡くなるまでパートナーだったのが、女優のステファニー・パワーズ。
 ホールデンはアフリカのケニアに牧場「Mount Kenya Game Ranch」を開設し、野生動物の保護に尽力していたが、彼の死後、ステファニー・パワーズが設立した財団「William Holden Wildlife Foundation」が野生動物保護への取り組みを継続している。
 (右の写真) ステファニー・パワーズと
Stefanie_Powers

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Open Season
『タワーリング・インフェルノ』(1974年)
ポール・ニューマン(左)と

『ダーティハンター』(1974年)

Network-2  ・『ネットワーク』(1976年/監督:シドニー・ルメットで、23年ぶり3度目のアカデミー賞主演男優賞の候補となったが、共演者のピーター・フィンチに競り負けた。
 (左の写真) 『ネットワーク』 フェイ・ダナウェーと

 ・24年ぶりにビリー・ワイルダー監督と組んだ『悲愁/フェドーラ』、『第十七捕虜収容所』で共演したドン・テイラーが監督した『オーメン2/ダミアン』(1978年)等に出演。ジュリー・アンドリュースと共演した『S.O.B.』(1981年/日本未公開)が遺作となった。
Fedora
Damien_Omen_II
『悲愁』(1978年)
マリオ・アドルフ(右)と

『オーメン2/ダミアン』(1978年)
リー・グラントと


 ・1981年63歳で他界。
 
 ・自宅で泥酔状態の時に転倒し、頭部を裂傷。死体が発見されたのは4日後だった。検死を担当したのは、その分野の世界的な権威だっ た日本人医師のトーマス野口だが、ハリウッドの伝説のスターらしからぬ死因を明らかにしたということでバッシングを受け、ロスアンゼルス検死局局長を辞職 に追い込まれるという思わぬ騒動に発展した。
 故人の生前の希望により葬儀は執り行われず、遺灰は太平洋に散布された。
 (右の写真)遺作となった『S.O.B.』出演時
S.O.B..

S.O.B.-2
 ・ホールデンが俳優として大活躍した1950年代は、ハリウッドの‟スター・システム”が崩壊し、モンゴメリー・クリフトマーロン・ブランドといった新世代の俳優と言われたスター達が台頭してきた時期であるが、ホールデンは彼等とは違い、ハリウッドの黄金時代の雰囲気を漂わせた最後の2枚目スターだったとも言える。
 (左の写真)遺作となった『S.O.B.』出演時

 

 ・1999年、AFI(アメリカ映画協会)が選定した「伝 説のスター・ベスト50」で、男優部門の第25位に。


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