20世紀・シネマ・パラダイス

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伝説の映画製作者たち

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 1930〜1940年代のハリウッドの映画スタジオ
  ビッグ5 … パラマウント、MGM、20世紀FOX、ワーナー・ブラザース、RKO
  リトル3 … ユニヴァーサル、コロンビア、ユナイテッド・アーチスツ
  更に小規模なリパブリックや、独立系の製作会社があった。

 ワーナー・ブラザース社
 1923年、ワーナー4兄弟が設立。
 1927年、『ジャズ・シンガー』でトーキー映画の先陣を切り、メジャーの仲間入りを果たした。
/Warner_Bros.

 ・1903年、次男アルバートと三男サムが、オハイオ州とペンシルベニア州の鉱山町で『大列車強盗』を巡回興行。次男アルバートがチケットを販売し、三男サムが映写機を操作した。

 ・成功を収めた2人に説得され、長男ハリーが自転車屋を売却した資金でペンシルベニア州の劇場を買収。本格的に映画興行業に乗り出し、四男ジャックも数年後に加わった。

 ・順調に劇場網を拡大し、配給業にも着手したが、発明王トーマス・エジソンが1908年に設立したMPPC(通称エジソン・トラスト)の締め付けに屈し、1910年、事業の売却を余儀なくされた。
 (右の写真)ポーランドからの移民だったワーナー4兄弟。左から、三男サム、長男ハリー、四男ジャック、次男アルバート
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 ・兄弟はエジソン・トラストと対峙していたカール・レムリの会社の代理店となり、ペンシルベニア州でフランス映画 『L'Inferno (ダンテの地獄編)(1911年)を興行。 大ヒットし、収益を得た。

 ・1915年、エジソン・トラストに独占禁止法違反の判決が下されてその圧力が弱まると、カール・レムリの承認を得てワーナー・フュー チャーズ社を設立。長男ハリーと次男アルバートはニューヨーク、三男サムはロスアンゼルス、四男ジャックはサンフランシスコで事業に専念した。

 ・1918年、兄弟が初めて製作した『My Four Years in Germany』が大ヒットし、カール・レムリの下を離れてハリウッドにスタジオを設立した。

 ・1923年、ワーナー・ブラザース社を設立。長男ハリーが社長、次男アルバートが財務、三男サムと四男ジャックが製作を担当した。

 ・名犬リン・チン・チンの作品が立て続けに大ヒットし、ユニヴァーサル、FOXと肩を並べるスタジオとなったが、パラマウント、MGM、ファースト・ナショナルのビッグ3にはまだ及ばなかった。
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/Rin_Tin_Tin
リー・ダンカンと初代のリン・チン・チン
初代のリン・チン・チン
 名犬リン・チン・チン (1918〜1932年) … ジャーマン・シェパードのオス
 
第一次世界大戦時、フランスに侵攻していたドイツ軍の軍用犬舎で生まれ、空爆後に生き残っていたところを、アメリカ兵のリー・ダンカンに拾われた。主演映画は27作。ワーナーブラザーズ社のドル箱スターであり、その死はラジオの臨時ニュースとなった。 
 
血統を受け継いだ犬が、今日もタレント犬として活動しているが、偉大な初代に肩を並べる名優は生れていないようだ。尚、『名犬ウォン・トン・トン』(1976年)は、リン・チン・チンをモデルとしたパロディ作品。

 ・1927年、『ジャズ・シンガー』でトーキー映画の先陣を切り、ファースト・ナショナル社等を買収。メジャー・ビッグ5の一角を占めるようになった。

 ・ワーナー兄弟はユダヤ系で、長男ハリーと次男アルバートは特に熱心なユダヤ教徒だったので、三男サムがカトリック教徒の女性と結婚した時には反対し、義理の妹となった女性をファミリーの一員として認めなかったという。
 (右の写真)左から、長男ハリー、四男ジャック、三男サム、次男アルバート
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 ・兄弟の中で、いち早くに映画ビジネスに夢を抱いていた三男サムが、『ジャズ・シンガー』のプレミア興行の前日に亡くなり、以後、製作部門は四男ジャックが1人で取り仕切るようになった。その四男ジャックが離婚し、再婚した時(1936年)にも2人の兄は反対し、以後、兄弟の間に亀裂が生じたという。


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 ジャック・L・ワーナー (1892-1978年)

 ・1956年、ジャックは裏工作を働き、2人の兄が所持していた株式を買い占め、1969年に退職するまで独占的オーナーであり続けた。 

 ・剛腕を振るう人物と知られ、MGM社のルイス・B・メイヤーやコロンビア社のハリー・コーン以上に横暴だったとの評判も。

 ・ワーナー・ブラザース社の興隆に貢献したダリル・F・ザナックハル・B・ウォレスも、最後はワーナー兄弟と対立して同社から去った。また、ベティ・デイビスオリヴィア・デ・ハヴィランドといった自社の看板スターから、契約について訴訟を起こされたりもした。
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1938年度のアカデミー賞授賞式
助演女優賞を受賞したフェイ・ベンダー(左)、
主演女優賞を受賞したベティ・デイビス
メイヨ・メソット(左)、ハンフリー・ボガート

 ・1959年、アカデミー賞のアービング・G・タルバーグ賞を受賞。

 ・製作部門の責任者として、製作の決定権や予算の承認権等を掌握していたが、個々の作品の製作にはほとんど関わっていなかった。しかし、同社史上最高額(当時)の製作費を投入した『マイ・フェア・レディ』(1964年)では自ら陣頭指揮を執り、アカデミー賞作品賞を獲得した。
 (右の写真)『マイ・フェア・レディ』製作時。オードリー・ヘップバーン、レックス・ハリソン(右)と
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『翼よ!あれが巴里の灯だ』(1957年)プレミア興行時
ゲーリー・クーパー(左)、ジェームズ・ステュアート(中央)と
『何がジェーンに起ったか?』(1962年)製作時
ベティ・デイビス(左)、ジョーン・クロフォード


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モーリン・オハラ
ナタリー・ウッド


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アカデミー賞(作品賞)受賞作品



第23回(1950年度)まで、作品賞のオスカー像は製作会社の代表者に贈呈されていた。
その間にワーナー・ブラザース社がオスカー像を獲得した作品は2作品。


第10回
第16回
The_Life_of_Emile_Zola
Casablanca
『ゾラの生涯』(1937年)
ポール・ムニ、ウラジーミル・ソコロフ

『カサブランカ』(1943年)
イングリッド・バーグマン、ハンフリー・ボガート



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