20世紀・シネマ・パラダイス

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伝説の映画製作者たち

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 1930〜1940年代のハリウッドの映画スタジオ
  ビッグ5 … パラマウント、MGM、20世紀FOX、ワーナー・ブラザース、RKO
  リトル3 ユニヴァーサル、コロンビア、ユナイテッド・アーチスツ
  更に小規模なリパブリックや、独立系の製作会社があった。

 ユニヴァーサル社
 1912年、カール・レムリが設立。
 1915年、総合スタジオ都市ユニヴァーサル・シティを建設。
/Universal


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 カール・レムリ 1867-1939年

 ・ ドイツ生れのユダヤ人。1884年、アメリカのシカゴに移住。様々な仕事に就いた後、1894年からウィスコンシン州の衣料品会社に簿記係として勤務して いた。1906年、待遇面に不満で会社を辞めてシカゴに戻った。自分の衣料品店を持つつもりだったが、ニッケルオデオンの盛況ぶりを見て、自分の劇場を持 つことにした。伝説によると、1日中ニッケルオデオンの前に立って入場者を数えていたという。

* ニッケルオデオン … 「5セント劇場」と呼ばれていた小さな劇場・映画館

 ・1906年2月、全財産3,600ドルをはたいて空ビルを買収。「ホワイト・フロント・シアター」と名付けたニッケルオデオンで映画興行業に乗り出した。39歳の時である。

 ・当時のニッケルオデオンは観客の大半が労働者階級で、見世物小屋やストリップ劇場と同等のちょっといかがわしげな娯楽施設だった。レムリは女性客を呼び込むために劇場を 常に清潔であるように努め、他との差別化を図った。その結果、投資金額を僅か1ケ月で回収し、翌月には第2の劇場「ファミリー・シアター」を開設した。

 ・1906年11月、配給会社レムリ・フィルム・サービスを設立。発明王エジソン率いるMPPC(通称エジソン・トラスト/1908年結成)との闘争を経て、数年後には全米一の配給会社となった。

 ・1909年、ニューヨークに映画製作会社IMP社(Independent Moving Picture Company)を設立。観客を呼び込むにはスターの存在が重要であることにいち早く気付いたレムリは、MPPC加盟のバイオグラフ社から女優のフローレンス・ロレンスメアリー・ピックフォードを引き抜き、ハリウッドの‟スター・システム”の礎を築いた。
 (右の写真) メアリー・ピックフォードと


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 ・1912年、ユニヴァーサル社を設立。IMP社と他の会社が合併して誕生した。

 ・1915年、ロサンゼルス北部の大丘陸地帯サンフェルナンド・バレーに、広さ230エーカー(東京ドームの約20倍) で世界最大の総合スタジオ都市ユニヴァーサル・シティを建設。 撮影見学のツアー客を歓迎していたが、トーキーの時代になるとツアー客の声が撮影に支障をきたすようになり中止された。

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 ・アービング・G・タルバーグコーン兄弟がレムリの下で働き、ワーナー兄弟はIMP社の代理店だった。また、ジョン・フォードウィリアム・ワイラーは映画監督としてのキャリアをユニヴァーサル社でスタートさせた。
 同社にはカール・レムリの親戚縁者が70人もいて、社内では「Uncle Carl  = カールおじさん」と呼ばれていたという。


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(上の写真)手前の4人、左から、カール・レムリ、メアリー・ピックフォード、ウィル・ロジャース、
カール・レムリ・ジュニア
後の3人、左から、ウィル・ヘイズ、アービング・G・タルバーグ、セシル・B・デミル


 ・1928年、息子のカール・レムリ・ジュニアの21歳の誕生日に社長の座を譲った。


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 ・ジュニアは拡大路線に舵を切った。従来は大半がB級(低予算)映画だったが、大作も製作するようになり、『西部戦線異状なし』(1930年)がアカデミー賞作品賞を受賞するなど成功も収めた。
 (右の写真)カール・レムリ親子
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 ・父親は‟スター・システム”の礎を築いたものの、当時のユニヴァーサル社にはドル箱スターがいなかった。「千の顔を持つ男」と称されたロン・チェイニーも、『オペラ座の怪人』(1925年)出演後はMGM社へ移籍していた。
 だが、特殊メイクの伝統を生かし、ドラキュラ、フランケンシュタイン、狼男といったモンスター・キャラクターを生み出し、『フランケンシュタイン』(1931年)は同社最大のヒット作(当時)となった。
 (左の写真)カール・レムリ親子

 ・また、父親は劇場経営からスタートしたが、その後は劇場網を拡大しなかった。自社の劇場チェーンの有無がビッグ5とリトル3を分けたが、新社長のジュ ニアは劇場の建設と買収にも乗り出した。だが、世界大恐慌の煽りを受けて頓挫し、この時の巨額な投資が致命傷となって、同社は財産管理を強いられてしまっ た。 
 (右の写真)カール・レムリ・ジュニア
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 ・1936年、ミュージカル映画『ショウボート』の製作中に資金繰りが行き詰り、カール・レムリ親子やその親族は同社から追放された。

 ・ユニヴァーサル社は倒産の危機に陥ったが、MGM社をクビになった15歳の少女ディアナ・ダービンの映画が大ヒットし、経営を立て直した。

 ・カール・レムリは1939年に72歳で他界。息子のジュニアは映画界に復帰することなく、1979年に亡くなった。


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アカデミー賞(作品賞)受賞作品



第23回(1950年度)まで、作品賞のオスカー像は製作会社の代表者に贈呈されていた。
その間にユニヴァーサル社がオスカー像を獲得した作品は1作品。


第3回

All Quiet on the Western Front
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『西部戦線異状なし』(1930年)
リュー・エアーズ
ルイス・B・メイヤー(左)からオスカー像を渡される
カール・レムリ



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