20世紀・シネマ・パラダ イス

hearttbar
Rita_Hayworth

リタ・ヘイ ワース

Rita Hayworth

 1918-1987 (アメリカ)


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   代表作

Blood_and_Sand
You'll_Never_Get_Rich-3
血と砂
Blood and Sand

(1941年/アメリカ)
踊る結婚式
You'll Never Get Rich

(1941年/アメリカ)
Tales_of_Manhattan
/Gilda-6
運命の饗宴
Tales of Manhattan
(1942年/アメリカ)
ギルダ
Gilda
(1946年/アメリカ)
The_Lady_from_Shanghai
Separate_Tables-2
上海から来た女
The Lady from Shanghai
(1947年/アメリカ)
旅路
Separate Tables
(1958年/アメリカ)


    1940年代のセックス・シンボル

 ・1918年、ニューヨーク生れ。本名はMargarita Carmen Cansino。父親はスペイン生れのダンサー、母親も歌劇団「ジーグフェルド・フォーリーズ」のダンサーだった。

 ・3歳の時から父親にダンスを習い、8歳の時に短編映画『La Fiesta(1926年)に出演もした。
 12歳の時に父親とダンス・コンビ「Dancing Cansinos」 を結成し、メキシコのナイト・クラブなどで活動。エキストラではあるが、メキシコ映画『Cruz Diablo(1934年)、ドロレス・デル・リオ主演の『カリアンテ』(1935年 /ワーナーブラザーズ社)に出演した。
  
(右の写真)リタ・ヘイワースと父親
Rita_Hayworth-4

Dante's_Inferno-2
 ・FOX社にスカウトされ、『コブラ・タンゴ』(1935年)の端役で本格的に女優としてデビューしたが、彼女も出演したスペンサー・トレイシー主演の『ダンテの地獄篇』(1935年)を最後にFOX社が20世紀社と合併。彼女の主役で企画されていた『ラモナ』(1936年)ロレッタ・ヤングに取っ て代わられ、バーバラ・スタンウィックの妹を演じた『ガルシアの伝令』(1936年)の出演シーンは試写会後にカットされた。全て、合併後に副社長に就任したダリル・F・ザナックの意向だったという。
 (左の写真)『ダンテの地獄編』出演時。

 ・20世紀FOX社からお払い箱にされた後、弱小会社のB級西部劇などに出演していたが、 1937年にコロンビア社と契約。芸名をリタ・キャンシーノからリタ・ヘイワースに改め、同社の社長ハリー・コーンの助 言で髪を赤毛にした。 

 ・1937年、実業家のエドワード・C・ジャドソンと結婚したが、1942年に離婚した。
 (右の写真)最初の夫エドワード・C・ジャドソンと
Edward_C._Judson

Only_Angels_Have_Wings
 ・B級作品への出演が続き、なかなか芽が出なかったが、ケーリー・グラントジーン・アー サー主演の大作『コンドル』(1939年/監督:ハ ワード・ホークスに出演し、漸く注目を集めた。ハリー・コーンが彼女を起用するように圧力をかけたと言われている。
 (左の写真)『コンドル』 ケーリー・グラントと

 ・ワーナー・ブラザーズ社に貸し出されて出演した『いちごブロンド』(1941年/監督:ラオール・ウォルシュ、古 巣の20世紀FOX社に貸し出されて出演した『血と砂』(1941年/監督:ルーベン・マムーリアンが大ヒット。『いちごブロンド』はオリヴィア・デ・ハヴィランド、『血と砂』はリンダ・ダーネルがヒロインで、彼女は準ヒロインだったが、人気に火がつくきっかけとなった。ワーナー・ブラザーズ社が彼女の契約を買い取ると申し出たが、ハリー・コーンが拒否した。
The_Strawberry_Blonde-3
Blood_and_Sand-2
『いちごブロンド』(1941年)
ジェームズ・キャグニー
自身初のカラー作品 『血と砂』(1941年)
タイロン・パワー

 ・当時のコロンビア社は、自社のスターと言えばジーン・アーサーくらいだった。同社はリタをスター とするため、フレッド・アステアを招き、彼女の主演としては初の高予算作品 『踊る結婚式』(1941年)を製作。リタは、ダンスに関しては厳しいアステアも賞賛した見事な踊りを披露(歌声は吹替え)し、スターの地位を確立した。
 (右の写真) 『踊る結婚式』フレッド・アステアと
You'll_Never_Get_Rich-2

 ・再び20世紀FOX社に貸し出されて『My Gal Sal 』、 『運命の饗宴』(1942年/監督:ジュリアン・ デュヴィヴィエに出演した後、自社でフレッド・アステアとの再共演作『晴れて今宵は』(1942年)に出演。本人曰く、「フレッド・アステアと共演した映画は人生の宝物」。
Tales_of_Manhattan-2
You_Were_Never_Lovelier
『運命の饗宴』(1942年)
シャルル・ボワイエ
『晴れて今宵は』(1942年)
フレッ ド・アステアと

Rita_Hayworth_LIFE-3
 ・第2次世界大戦中は、米軍兵士たちの間でベティ・グレイブルに次いで人気の高いピンナップ・ガールだった。
 1940年代に4度「LIFE」誌の表紙を飾ったが、特に1941年8月に出版された同誌の写真は人気が高かったという。
 (左の写真)「LIFE」誌のリタ・ヘイワース

 ・1943年、オーソン・ウェ ルズが戦意高揚のために軍に協力して興行した「マーキュリー劇団ワンダー・ショー」(軍人は入場無料だった)に出演。
 (右の写真)「マーキュリー劇団ワンダー・ショー」出演時。オーソン・ウェルズ(右)と
The_Mercury_Wonder_Show

Hayworth_&_Wells  ・「マーキュリー劇団ワンダー・ショー」の興行期間中にオーソン・ウェルズと再婚し、翌1944年に長女を出産。彼女のお気に入りだっ たウォルター・スコットの小説「黒騎士 - アイヴァンホー」 のヒロインの名前レベッカを命名した。
 (左の写真)娘とオーソン・ウェルズと

 ・ミュージカル『カバーガール』(1944年)、 『今宵よ永遠に』(1945年)、フィルム・ノワール『ギルダ』(1946年)に出演。『ギルダ』が大ヒットし、セックス・シンボルと謳われるようになった。
Cover_Girl
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『カバーガール』(1944年)
ジーン・ケリー

『ギルダ』(1946年)
グレン・フォード


Gilda
Gilda
Gilda

 ・1946年、米軍がビキニ環礁で核実験をした際の原子爆弾の1つは「ギルダ」 とのニックネームが付けられ、彼女の写真が貼られていた。(右の写真)
 
この事を知ったリタは非常に憤慨し、抗議の記者会見を開こうとしたが、効果的な宣伝になると見込んだハリー・コーンに制止させられたという。
Gilda-3

Gilda-4
 ・『ギルダ』のリタは、イタリアの名作映画『自転車泥棒』 (1948年)に も登場。
 主人公が自転車を盗難される時に壁に貼っていたのは、黒いドレスを着たリタ・ヘイワースのポスターだった。
 (左の写真)『自転車泥棒』 リタ・ヘイワースのポスターのシーン

 ・オーソン・ウェルズが監督・主演した『上海から来た女』(1947年)には、トレードマークだった赤毛のロングをブロンドのショートにして出演。撮影時、夫婦は既に別居しており、1948年に離婚した。
 (右の写真)『上海から来た女』 オーソン・ウェルズと
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Prince_Aly_Khan  ・1949年、パキスタンのアリ・カーン王子と結婚し、王妃となった。引退し、女 の子を授かったが、王子はプレイボーイとして有名で、ジーン・ティアニーとの交際が発覚するなどして、1953年 に離婚した。
 (左の写真)3番目の夫アリ・カーンと

 ・グレン・フォードとの再共演作『醜聞殺人事件』(1952年)で、4年ぶりに銀幕復帰。映画は大ヒットし、彼女の人気が衰えていないことを証した。
 その後、『情炎の女サロメ』、サマセット・モームの小説「雨」の3度目の映画化作品『雨に濡れた欲情』(1953年)に出演した。
 (右の写真)『醜聞殺人事件』グレン・フォードと
Affair_in_Trinidad

Salome Miss_Sadie_Thompson
『情炎の女サロメ』(1953年)
ステュアート・グレンジャーと
『雨に濡れた欲情』(1953年)
ホセ・フェラーと

Dick_Haymes
 ・1953年、歌手のディック・ヘイムズと4度目の結婚をし、再び引退。彼も4度目の結婚だったが、前妻、前々妻への養育費の支払い等、金銭がらみのトラブルが多く、1955年に離婚した。
 (左の写真)4番目の夫ディック・ヘイムズと

 ・『海の荒くれ』(1957年)で 4年ぶりに再復帰。次作の『夜の豹』(1957年)では、コロンビア社の新たな看板女優キム・ノヴァクと共演。同作がリタ・ヘイワースの最後のミュージカルで、コロンビア 社での最後の作品にもなった。
 (右の写真)『夜の豹』キム・ノヴァク(左)、フランク・シナトラ
Pal_Joey

James_Hill
 ・1958年、映画製作者のジェームズ・ヒルと5度目の結婚をしたが、1961年に離婚。最後 の結婚だった。
 (左の写真)5番目の夫ジェームズ・ヒルと

 ・5度目の結婚時には引退しなかった。フリーとなって最初の作品『旅路』(1958年)は、夫のジェームズ・ヒルが製作(共同)した作品だった。
 (右の写真)『旅路』 バート・ランカスター
Separate_Tables

They_Came_to_Cordura ・若い頃から飲酒癖があり、晩年はアルコール依存症だった。酔うと怒りっぽくなり、飛行 機の搭乗を拒否されたこともあったという。
 最後の映画となった『サンタマリア特命隊』(1972年)の頃は台詞をなかなか覚えられ ず、飲酒が原因と誤解されていたが、実はアルツハイマー病を患っていたことが1980年に判明した。
 (左の写真) 『コルドラへの道』(1959年)ゲーリー・クーパー

 ・当時はアルツハイマー病の認知度が低く、彼女はこの病を世間に知らしめる大きなきっかけに もなった。
 (右の写真)『サーカスの世界』(1964年)ジョン・ウェイン
 ゴールデン・グローブ賞の主演女優賞ノミネート作品。
Circus_World

 ・1987年68歳で他界。

 ・彼女の次女が主催者で毎年開催さ れているリタ・ヘイワース記念祭は、アルツハイマー病の研究の為に多額の資金援助をしている。

 ・1994年、スティーブン・キングの小説「刑務所のリタ・ヘイワース」(1982年出版)を映画化した『ショーシャンクの空に』公開。
   (右の写真)『ショーシャンクの空に』に登場したリタ・ヘイワースのポスター
 
 1999年AFI(アメリカ映画協会)が選定した「伝説のスター・ベスト50」の女優部門で第19位に選出された。
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