20世紀・シネマ・パラダ イス

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Danny_Kaye

ダニー・ケ イ

Danny Kaye

 
1911-1987(アメリカ)

 

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     代表作
 
The_Secret_Life_of_Walter_Mitty On_the_Riviera
虹を掴む男
The Secret Life of Walter Mitty
(1947年/アメリカ)
南仏夜話 夫(ハズ)は偽物
On the Riviera
(1951年/アメリカ)
White_Christmas-2.
The_Five_Pennies-3
ホワイト・クリスマス
White Christmas
(1954年/アメリカ)
5つの銅貨
The Five Pennies
(1959年/アメリカ)


     ユニセフ親善大使も務めた人気コメディアン

 ・1911年、ニューヨーク州生れ。本名はDavid Daniel Kaminsky。両親は1910年にウクライナからアメリカに移住したユダヤ系ロシア人。(注)1913年生れとする説もあるが、1911年説が有力。

 ・13歳の時に学校を中退。ギターを弾く友人と2人でフロリダへ行き、ストリート・ミュー ジシャンとして生計を立てていた時期もあった。
 その後、ニューヨークへ戻り、リゾート地Borscht Beltのホテルなどで働きながら、歌やダンスの芸を磨いていった。
 (右の写真)子供の頃のダニー・ケイ
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 * Borscht Belt … キャッツキルト山脈のリゾート地。ニューヨークに住むユダヤ系の人々が集うリゾート地だったため、キャッツキルト山脈は「ユダヤ人のアルプス」 とも言われていた。
 エディ・カンタージャック・ベニーマルクス兄弟ジェリー・ルイス、メル・ブルックス、ウッディ・アレンといったユ ダヤ系コメディアンたちが、このリゾート地のステージに立った。

Danny_Kaye-5  ・1933年、劇団で‟Three Terpsichoreans(3人の踊り子)を結成。この時から芸名 Danny Kayeを名乗るようになった。
 翌1934年、アジア巡業の一環として来日。大阪での公演時、台風の影響で劇場が停電してしまい、ダニーは懐中電灯を手にアドリブで 歌や踊りを披露。英語が通じない観客を楽しませるために披露した顔芸やパントマイムが芸風を生み出すきっかけになったとの伝説がある。
 (左の写真)‟Three Terpsichoreans” 真ん中がダニー・ケイ

 ・1937年、エデュケーショナル・ピクチャーズ社と契約し、短編映画 『Dime a Dance(1937年)で銀幕デビュー。2年間で4本の短編映画に出演したが、大ブレイクとはならなかった。
 (右の写真)3本目の短編映画『Cupid Take a Holiday 』(1938年)
Cupid_Takes_a_Holiday

 ・1939年、舞台「The Straw Hat Revue」 でブロードウェイ・デビュー。舞台はさして評判にならなかったが、作詞・作曲家のシルヴィア・ファインと出会い、翌1940年に結婚した。

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 ・ニューヨークのナイト・クラブでシルヴィアのピアノ伴奏に合わせて歌やダンスを披露して いたパフォーマンスが劇作家モス・ハートの目に留まり、彼の戯曲で大女優ガートルード・ローレンス主演のブロードウェイ・ミュージカル「Lady in the Dark(1941年)に出演。同舞台でシルヴィアが作詞・作曲した「チャイコフスキー」 を披露。僅か40秒弱の間に50人のロシア人作曲家の名前を唄い、絶賛された。
 (左の写真)シルヴィア・ファインと
* モス・ハート … 映画『我が家の楽園』(1938年)の原作、『紳士協定』(1947年)、『スタア誕生』(1954年)等の脚本を執筆。
* ガートルード・ローレンス … ブロードウェイの大ヒット・ミュージカル「王様と私」(1951年〜)で最初にアンナ役を務めた。

 ・映画製作者サミュエル・ ゴールドウィンの誘いを断って、ブロードウェイで初主演のミュージカル・コメディ「Let's Face It !(1941年)に出演。1年半に及ぶロングランの大ヒットとなった。
 * Let's Face It !」 … ボ ブ・ホープ主演『腰抜けと原爆娘』(1943年)として映画化された。

 ・粘り強く映画出演を要請していたゴールド ウィンと契約を交わし、ユダヤ系ロシア人の先輩コメディアン、エディ・カンター主演『ウーピー』(1930年)の リメイク作『ダニー・ケイの新兵さん』(1944年)で本格的な銀幕デビュー。映画は大ヒットした。
 (右の写真) 『ダニー・ケイの新兵さん』 ダイナ・ショアと
Up_in_Arms

 ・ダニー・ケイの地毛は赤毛だったが、カラー映えするよう金髪に染めていた。
Wonder_Man
The_Kid_From_Brooklyn
『ダニー・ケイの天国と地獄』(1945年)
ヴァージニア・メイヨ
『ダニー・ケイの牛乳屋』(1946年)
ヴァージニア・メイヨと

Danny_Kaye_USO  ・1945年、米軍兵士の慰問ツアーに出立。日本の米軍基地でもショーを行った。
 戦後に来 日した最初のハリウッド・スターだったが、この頃はまだ日本ではあまり知られていなかった。
 (左の写真)1945年、長崎県佐世保市の米軍基地にて
 右端がダニー・ケイ

 ・1946年に長女を授かったが、翌年から妻と別居。彼が亡くなるまで法律的には 夫婦だったが、再び一緒に暮らすことはなかったという。
 妻のシルヴィアは、ダニー主演の『5つの銅貨』(1959年)でアカデミー賞歌曲賞にノミネートされた。
 (右の写真)妻と娘と
Danny_Kaye_&_Family

Danny_Kaye_1947  ・1947年、ハリウッドにおける‟赤 狩り”に反対する「憲法修正第一条委員会」のメンバーに名を連ね、下院非米活動委員会による聴聞会に抗議するためワシントンへ乗り込んだ。
 (左の写真)手前の3人。左から、ダニー・ケイ、ローレン・バコールハンフリー・ボガートボギーはダニー・ケイのファンだったという。

 ・4作目の主演映画『虹を掴む男』(1947年)は、日本で最初に公開(1950年)されたダニー・ケイの作品。次作の『ヒット・パレード』(1948年)は、『教授と美女』(1941年)をミュージカルにアレンジした作品。同作をもってゴールドウィンとの契約が終了。2作目から5作目まではヴァージニア・ メイヨがヒロイン役を務めた。
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A_Song_Is_Born
『虹を掴む男』(1947年)
ヴァージニア・メイヨと
『ヒット・パレード』(1948年)
ヴァージニア・メイヨと

 ・『検察官閣下』(1949年)、 ゴールデン・グローブ賞の主演男優賞(ミュージカル・コメディ部門)を受賞した『南仏夜話 夫(ハズ)は偽物』(1951年)、「マッチ売りの少女」、「みにくいアヒルの子」等の童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンの物語をモチーフとした『アンデルセン物語』(1952年)に出演。
On_the_Riviera-2
Hans_Christian_Andersen
『南仏夜話 夫(ハズ)は偽物』(1951年)
ジーン・ティアニー
『アンデルセン物語』(1952年)

 ・パラマウント社と契約し、『あの手この手』(1954年) 、大ヒット作 『ホワイト・クリスマス』(1954年/監督:マイ ケル・カーティスに出演。
Knock_on_Wood
White_Christmas
『あの手この手』(1954年)
マイ・セッタリングと

『ホワイト・クリスマス』(1954年)
ビング・クロ スビー(左)と 

 ・1954年、ユニセフの親善大使(初代)に就任。亡くなるまで、日本を含め世界中を回った。
 (右の写真)日本の子供たちと
Danny_Kaye_in_Japan

 ・1955年、アカデミー賞の名誉賞を受賞。

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 アカデミー賞の名誉賞受賞時。プレゼンターは当時の会長チャールズ・ブラケット



 ・『ダニー・ケイの黒いキツネ』(1955年)、 『僕はツイている』、2度目のゴールデン・グローブ賞主演男優賞(ミュージカル・コメディ部門)を受賞した『ダニー・ケイの戦場のドン・キホーテ』(1958 年)、実在のコルネット奏者レッド・ニコルズに扮した『5つの銅貨』(1959年) 、 『ダニー・ケイの替え玉作戦』(1961年)、最後の主演作『現金お断り』(1963年)に出演。
Me_And_The_Colonel
The_Five_Pennies-2
『ダニー・ケイの戦場のドン・キホーテ』(1958 年)
クルト・ユルゲンス(右)と
『5つの銅貨』(1959年)
ルイ・アームストロング (左)と

 ・1963年から1967年までTV番組「ダニー・ケイ・ショー」 が放映された。劇場用映画は、キャサリン・ヘップバーン主演の 『シャイヨの伯爵夫人』(1969年)にカメオ出演したのが最後となったが、その後もTVドラマには出演した。

 ・1982年、アカデミー賞のジーン・ハーショルト友愛賞を受賞。

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 ジーン・ハーショルト友愛賞受賞時。プレゼンターはグレゴリー・ペック



Danny_Kaye-7  ・ユニセフのチャリティーコンサートでオーケストラの指揮者としても活躍。楽譜が読めな かったというが、コミカルな指揮で観客を沸かせた。
 (左の写真)オーケストラの指揮を執るダニー・ケイ

 ・米軍兵士の慰問ツアーでアジア各国を訪問して以来、中華料理に興味を覚え、自宅に特注品のキッチンを創設。料理の腕前は本格的で、プロの料理人以外では初めてフランスの国家最優秀職人賞(MOF)を受賞した。
 (右の写真)料理中のダニー・ケイ
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Danny_Kaye-9.
パイロットでもあった。
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大リーグの球団マリナーズの
オーナーの1人 でもあった。

 ・1986年、フランス政府よりレジオンドヌール勲章を授与される。

 ・1987年76歳で他界。没後、大統領自由勲章が授与された。

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