20世紀・シネマ・パラダイス
ジョン・ヒューストン
John Huston
1906-1987 (アメリカ)
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・ハーマン・メルヴィルの小説を映画化した『白鯨』
(1956年)
は、ヒューストン監督が長年映画化を望んでいた作品で、父親にエイハブ船長を演じてもらうことが夢であったという。
亡きウォルター・ヒューストンに代わって、
グレゴリー・ペック
がエイハブ船長役に起用された。
(右の写真)『白鯨』撮影時。グレゴリー・ペック(左)と
・『白鯨』で神父を演じた
オーソン・ウェルズ
は生涯の友となった。2人は同じ1941年に映画監督としてデビューし、ヒューストンはウェルズが監督した『
The Stranger
』
(1946年/製作:サム・スピーゲル)
の脚本にノン・クレジットで携わってもいる。
(左の写真)『白鯨』撮影時。オーソン・ウェルズ(右)と
・親友だった文豪アーネスト・ヘミングウェイの『武器よさらば』
(1957年)
の監督に起用されたが、製作者の
デビッド・O・セルズニック
と対立し、解任された。
後任監督は、ヒューストンの3番目の妻だったイヴリン・キースの元夫チャールズ・ヴィダーが起用された。
(右の写真)アーネスト・ヘミングウェイ (左)と
・『白い砂』
(1957年)
は、日本軍が占領する海域の孤島に流れついた男女を描いた、『アフリカの女王』を彷彿させる作品。アカデミー賞で、主演女優賞と脚本賞
(ジョン・ヒューストン&ジョン・リー・マーヒン)
の2部門でノミネートされた。
『白い砂』
(1957年)
デボラ・カー
、
ロバート・ミッチャム
『白い砂』撮影時
デボラ・カーと
・
ジョン・ウェイン
が初代駐日総領事タウンゼント・ハリスに扮した『黒船』
(1958年)
は、1957年10月から5ヶ月間、日本で撮影された。原題は「野蛮人と芸者」。ヒロインの芸者お吉は、ヒューストンに見出された安藤栄子が演じた。
『黒船』(1958年)
安藤栄子、ジョン・ウェイン
『黒船』撮影時
ジョン・ウェイン(右)と
・
エロール・フリン
、
トレヴァー・ハワード
主演の『自由の大地』
(1958年)
は、 アフリカ象の保護に情熱を燃やす男を描いた作品。『アフリカの女王』の時と同様、ロケ中に多くのスタッフが病気や下痢でダウンしたが、水の変わりにウィスキーを飲んでいたヒューストン監督は無事だったとか。
アルコール依存症だったエロール・フリンは度々問題を起こし、ヒューストン監督にノックアウトされたとのエピソードも。
(左の写真)『自由の大地』撮影時。アフリカの原住民と
・『許されざる者』
(1960年)
は、
ジョン・フォード
監督の
『捜索者』
(1956年)
に対抗する作品として製作された。撮影中、
オードリー・ヘップバーン
が落馬事故で入院し、流産。オーディ・マーフィは、ボートが転落し、あわや溺死という事故に遭った。
『許されざる者』
(1960年)
バート・ランカスター
、オードリー・ヘップバーン
『許されざる者』撮影時
オードリー・ヘップバーンと
・
クラーク・ゲーブル
、
マリリン・モンロー
、
モンゴメリー・クリフト
の豪華共演作『荒馬と女』
(1961年)
は、ヒューストン監督にとって、『赤い風車』以来の久々のヒット作となった。ゲーブルとモンローの遺作。
(右の写真)『荒馬と女』 撮影時。前列左から、モンゴメリー・クリフト、マリリン・モンロー、クラーク・ゲーブル。中列左から、イーライ・ウォラック、ヒューストン監督。後列アーサー・ミラー(脚本)
・戦時中にドキュメンタリー『
Let There Be Light
』を撮って以来、心理学者のジークムント・フロイトに興味を抱いていたヒューストン監督は、『フロイド/隠された欲望』
(1962年)
でフロイトの若き日々を描いた。当初、哲学者のサルトルが脚本を執筆したが、ヒューストン監督と対立し、自分の名前がクレジットされることを拒否した。
『フロイド/隠された欲望』
(1962年)
モンゴメリー・クリフト、スザンナ・ヨーク
『フロイド/隠された欲望』撮影時
モンゴメリー・クリフト(左)と
・
ジョージ・C・スコット
主演のミステリー『秘密殺人計画書』
(1963年)
には、
カーク・ダグラス
、
トニー・カーティス
、
ロバート・ミッチャム
、
フランク・シナトラ
といったスターがカメオ出演した。
『秘密殺人計画書』撮影時
ジョージ・C・スコット(右)と
『秘密殺人計画書』撮影時
カーク・ダグラス(左)と
・自作には度々端役で出演していたが、
オットー・プレミンジャー
監督の『枢機卿』
(1963年)
で本格的に俳優としてデビュー。アカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。
(左の写真)『枢機卿』でのジョン・ヒューストン
・テネシー・ウィリアムズの戯曲を映画化した『イグアナの夜』
(1964年)
には、
リチャード・バートン
、
エヴァ・ガードナー
、デボラ・カー、スー・リオンが出演し、その年のMGM社最大のヒット作となった。アカデミー賞では4部門でノミネートされ、衣装デザイン賞
(白黒部門)
を受賞した。
『イグアナの夜』
(1964年)
エヴァ・ガードナー、リチャード・バートン
『イグアナの夜』
撮影時
リチャード・バートン(右)と
・「旧約聖書」の創世記を描いた『天地創造』
(1966年
)は、ヒューストン監督の作品で最も予算のかかった大作。
ピーター・オトゥール
、ジョージ・C・スコット、エヴァ・ガードナー等が出演し、自身も「ノアの方舟」のノア役で出演した。ヒューストン自身は無神論者だった。
『天地創造』
(1966年)
エヴァ・ガードナー、ゾーイ・サリス
『天地創造』
(1966年)
ジョン・ヒューストン
・007シリーズのパロディ大作『007 カジノロワイヤル』
(1967年)
では、5人の共同監督の1人としてメガホンをとり、自ら出演もした。
『007 カジノロワイヤル』
(1967年)
シャルル・ボワイエ
(左)と
『007 カジノロワイヤル』撮影時
デボラ・カー、
デヴィッド・ニーヴン
(右)と
・
エリザベス・テイラー
、
マーロン・ブランド
主演の『禁じられた情事の森』
(1967年)
を監督。当初、ブランドの役は、前年に亡くなったモンゴメリー・クリフトが演じる予定だった。
『禁じられた情事の森』
(1967年)
マーロン・ブランド、エリザベス・テイラー
『禁じられた情事の森』
撮影時
マーロン・ブランド(右)と
・ジョン・ハート主演の冒険コメディ『華麗なる悪』
(1969年)
、娘のアンジェリカ・ヒューストンのデビュー作『愛と死の果てるまで』
(1969年)
を監督。
『華麗なる悪』(1969年)
ジョン・ハート、パメラ・フランクリン
『愛と死の果てるまで』撮影時
娘のアンジェリカと
・1969年、4番目の妻リッキー・ソマが交通事故で亡くなった。
彼女との間で2人の子を授かったが、ジョンはロケでほとんど家におらず、夫婦で浮気をしていた。
ジョンは、『天地創造』に出演した女優ゾーイ・サリス との間で息子のダニーを授かり、ソマの死後、彼女が不倫相手との間で授かった娘のアレグラを養女にした。
(右の写真)4番目の妻リッキー・ソマと
ジョンは1972年に5度目の結婚をしたが、1977年 に離婚した。
・犯罪ドラマ『クレムリン・レター 密書』
(1970年)
、スポーツドラマ『ゴングなき戦い』
(1972年)
を監督。
『クレムリン・レター 密書』
(1970年)
ビビ・アンデショーン
、
マックス・フォン・シドー
『クレムリン・レター 密書』
(1970年)
ジョージ・サンダース
(左)と
『ゴングなき戦い』
(1972年)
ステイシー・キーチ、ジェフ・ブリッジス
『ゴングなき戦い』
撮影時
ヒューストン監督(左)、ステイシー・キーチ(右)
・西部開拓時代の実在の人物を描いた『ロイ・ビーン』
(1972年)
を監督。主役の
ポール・ニューマン
とは、翌年、『マッキントッシュの男』でも組んだが、こちらはヒューストン自身が最悪の映画と評した作品になった。
『ロイ・ビーン』(1972年)
ポール・ニューマン
『ロイ・ビーン』撮影時
ポール・ニューマン(左)と
『マッキントッシュの男』(1973年)
ドミニク・サンダ、ポール・ニューマン
『マッキントッシュの男』撮影時
ポール・ニューマン(左)と
・ロマン・ポランスキー監督の『チャイナタウン』
(1974年)
に出演。俳優としての代表作となった。
当時、娘のアンジェリカが、同作主演のジャック・ニコルソンと交際していたことも、出演のきっかけになった。
(左の写真)『チャイナタウン』 ジャック・ニコルソン(右)と
・1950年代から映画化を構想していたという『王になろうとした男』
(1975年)
を完成。
ヒューストン監督の構想では、主役の2人は年代順に、
クラー ク・ゲーブル
と
ハンフリー・ ボガート
。
バート・ランカスター
と
カーク・ダグラス
。リチャード・バートンとピーター・オトゥール。ロバート・レッドフォードとポール・ニューマンだっ たという。映画ファンならどれも垂涎ものの組み合わせ。
(右の写真)『王になろうとした男』
ショーン・コネリー
、マイケル・ケイン
ポール・ニューマンから、この作品はイギリスの俳優が良いとアドバイスされ、ショーン・コネリーとマイケル・ケインが起用された。
アカデミー賞の脚色賞
(ジョン・ヒューストン&グラディス・ヒル)
等、計4部門でノミネートされた。
(左の写真)『王になろうとした男』撮影時。左から、ショーン・コネリー、ヒューストン監督、マイケル・ケイン
・ショーン・コネリーとは、『ロイ・ビーン』の脚本を書いたジョン・ミリアスの監督作品『風とライオン』
(1975年)
で共演もした。
『勝利への脱出』
(1981年)
シルベスター・スタローン(青シャツ)他
『勝利への脱出』撮影時。
左から、シルベスター・スタローン、
マイケル・ケイン、「サッカーの神様」ペレと
『アニー』(1982年)
アルバート・フィニー
、アイリーン・クイン
『アニー』撮影時
アイリーン・クインと
・1983年、AFI(アメリカ映画協会)の生涯功労賞を受賞。授賞式のホストは
ローレン・バコール
が務めた。
『火山のもとで』(1984年)
ジャクリーン・ビセット、アルバート・フィニー
『火山のもとで』撮影時
ジャクリーン・ビセット(手前)
、ヒューストン監督(右)
・犯罪ブラック・コメディ『女と男の名誉』
(1985年)
は、アカデミー賞の作品賞、監督賞など8部門でノミネートされた。ヒューストン監督の79歳でのノミネートは同賞の最高齢記録
(2015年現在)
。娘のアンジェリカに助演女優賞をもたらし、親子3世代続いてのオスカー受賞を達成した。
『女と男の名誉』
(1985年)
ジャック・ニコルソン、キャスリーン・ターナー
『女と男の名誉』撮影時。左から、ジャック・ニコルソン、
キャスリーン・ターナー、ヒューストン監督、
アンジェリカ・ヒューストンン
・1985年度のアカデミー賞授賞式に、
ビリー・ワイルダー
監督、『乱』で監督賞の候補でもあった黒澤明監督と一緒に、作品賞のプレゼンターとして登場。
(右の写真)左から、ビリー・ワイルダー、黒澤明、ジョン・ヒューストン
・『ザ・デッド/「ダブリン市民」より』
(1987年)
が遺作となった。脚本は息子のトニー。ヒューストン監督は車椅子に乗り、酸素吸入器を付けての執念の撮影だった。「黒澤明が選んだ100本の映画」の中で、当作品が選出されている。
『ザ・デッド/「ダブリン市民」より』(1987年)
アンジェリカ・ヒューストン、
ドナルド・マッキャン
『ザ・デッド/「ダブリン市民」より』撮影時
左から、ドナルド・マッキャン、アンジェリカ、
ヒューストン監督
・
1987年
、
81歳
で他界。『ザ・デッド/「ダブリン市民」より』の公開前だった。
・1988年、 ジョン・ヒューストンが執筆した脚本をもとに、息子のダニーが、『ミスター・ノース 風を運んだ男』 を監督。ジョン・ヒューストンが健康であれば演じていたはずの役は、ジョン・ヒューストンの依頼により、ロバート・ミッチャムが演じた。娘のアンジェリカ とアレグラも出演した。
・親友だったオーソン・ウェルズが、1970年から1976年まで製作・監督していた未完成作品で、ジョン・ヒューストンも出演している『風の向こう側』が、2018年のヴェネツィア国際映画祭で初公開された。
(左の写真)『風の向こう側』 ジョン・ヒューストン、オーソン・ウェルズ
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