20世紀・シネマ・パラダイス

Scandalbar

伝説の映画製作者たち

Scandalbar


   アーサー・フリード

 1940〜1950年代にかけて、MGM社のミュージカル黄金時代を築いた。

 ・1894年、サウスカロライナ州生れ。歌手、ピアニストとして活動した後、作詞家に転身。MGM社が世界初の全編トーキーによるミュージカル映画として製作した『ブロードウェイ・メロディー』(1929年)の主題歌を作詞。映画は大ヒットし、第2回アカデミー賞で作品賞を受賞した。
 
Arthur_Freed

 ・その後もMGM社で作詞家として活躍。代表曲には、オールスター・キャスト作品『ハリウッド・レヴィユー』(1929年)の中で使用された「雨に唄えば」がある。

Arthur_Freed-2  ・『オズの魔法使』(1939年)でアシスタント・プロデューサーを務めた後、製作者に転身。最初の製作作品『青春一座』(1939年/主演:ミッキー・ルーニージュディ・ガーランドは、『オズの魔法使』を上回る大ヒット作品となった。
 (左の写真)ジュディ・ガーランドと

 ・ミュージカル映画の製作に関しては、ほぼ全権限を掌握するようになり、数多くの優秀な人材を招き、育成した。
 『For Me and My Gal(1942年)で銀幕デビューを果たしたジーン・ケリーは、当時はデビッド・O・セルズニックの契約下にあったが、その契約を買い取り、MGM社ミュージカルの最大の看板スターに仕立て上げた。
 (右の写真)ジーン・ケリー(左)と
Arthur_Freed-3
 
Arthur_Freed-5
 ・ジーン・ケリーが主演予定だった『イースター・パレード』(1948年)を怪我で降板した時には、引退していたフレッド・アステアを銀幕復帰させた。
 (左の写真)『絹の靴下』(1957年)製作時。シド・チャリシー、フレッド・アステア(右)と

 ・製作した作品の中、『巴里のアメリカ人』(1951年)、『恋の手ほどき』(1958年)の2作品がアカデミー賞作品賞を受賞。2作品ともヴィンセント・ミネリが監督したが、ヴィンセント・ミネリを映画界に招いたのもアーサー・フリードだった。
 (右の写真)ヴィンセント・ミネリ(後)と
Arthur_Freed-6.

 ・1951年度のアカデミー賞でアーヴィング・G・タルバーグ賞を受賞。

 ・1963〜1967年までアカデミー協会の会長を務め、1970年に映画界から引退した。

 ・1973年78歳で他界。

 ・シャーリー・テンプルが自伝(1988年出版)の中で、フリードから受けた性的嫌がらせを暴露。1938年、当時10歳の彼女は20世紀FOX社の専属スターだったが、『オズの魔法使』 のヒロイン候補としてMGM社のオフィスでフリードと面会。フリードがズボンを下ろし、自分の一物をさらけ出した。シャーリーが大笑いしたため、怒ったフ リードは彼女をオフィスから追い出したという。
 その他にも、フリードには、今の世ならハリウッドから追放されること間違いなしというセクハラに関する噂が 多いのも事実である。

Arthur_Freed-4  ・2006年、AFI(アメリカ映画協会)が「ミュージカル映画ベスト25」を選定。フリード製作の5作品がランク入りした。
  第1位 『雨に唄えば』(1952年)
  第9位 『巴里のアメリカ人』(1951年)
  第10位 『若草の頃』(1944年)
  第17位 『バンド・ワゴン』(1953年)
  第19位 『踊る大紐育』(1949年)
 (左の写真)『恋の手ほどき』でアカデミー賞を受賞した時


HOME