20世紀・シネマ・パラダ イス
アルフレッ ド・ヒッチコック
Alfred Hitchcock
1899-1980 (イギリス/アメリカ)
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・イギリスで、
ジェーン・ワイマン
、
マレーネ・ディートリッヒ
主演の『舞台恐怖症』
(1950年)
を監督。興行的には振るわず、スランプが続いた。マレーネ・ディートリッヒ曰く、「
ヒッチコック監督は、独裁者と思われずに独裁者でいられる才能を持った映画監督
」。
『舞台恐怖症』(1950年)
ジェーン・ワイマン(左)、マレーネ・ディートリッヒ
撮影時
マレーネ・ディートリッヒと
・ストーキングの恐怖を描いた『見知らぬ乗客』
(1951年)
は、ビッグネームの俳優は出演していないが、久々のヒット作となった。
『見知らぬ乗客』(1951年)
ファーリー・グレンジャー(左)、ロバート・ウォーカー
撮影時
ロバート・ウォーカー(左)、ファーリー・グレンジャーと
・『見知らぬ乗客』のカメラマン、ロ バート・バークスは、ヒッチコックのお気に入りとなり、『サイコ』を除く、『マーニー』までの全作品を撮影した。『見知らぬ乗客』、『裏窓』でアカデミー賞撮影賞にノミネートされ、『泥棒成金』で同賞を受賞した。
(右の写真)ロバート・バークス(左)と
・スランプ脱出の気配を感じさせたが、『私は告白する』
(1953年)
は、再び興行面で苦戦した。
『私は告白する』(1953年)
モンゴメリー・クリフト
、
アン・バクスター
撮影時
アン・バクス ター、モンゴメリー・クリフトと
・ブロードウェイの舞台劇を映画化した『ダイヤルMを廻せ!』
(1954年)
が大ヒット。ヒッチコックの完全復活、再びの黄金時代の幕開けとなった。3Dとして製作されたが、日本では通常版のみの公開だった。
グレース・ケリー
は3 作連続でヒロインを務めた。ヒッチコック作品の代表的ヒロインは、1940年代は
イングリッド・バーグマン
、1950年代はグレース・ケリーだった。
『ダイヤルMを廻せ!』
(1954年)
アンソニー・ドーソン、グレース・ケリー
撮影時
グレース・ケリー、ロバート・カミングスと
・この時期のヒッチコックは創作意欲・気力が充実しており
(グレース・ケリーとの出会いのおかげか?)
、『ダイヤルMを廻せ!』
(ワー ナー・ブラザーズ社)
が公開されてから僅か64日後に、次作の
『裏窓』
(パラマウント社)
が 公開された。
『裏窓』は、ヒッチコックのキャリア最大のヒット作となり、アカデミー賞の監督賞(4度目)など4部門でノミネートされたが受賞は逃した。
*
インフレ調整後の興行成績は歴代96位 (2014年現在)
『裏窓』(1954年)
ジェームズ・ステュアート
、グレース・ケリー
撮影時
ジェー ムズ・ステュアート、グレース・ケリーと
・『泥棒成金』
(1955年)
では、引退していた
ケーリー・グラント
が、ヒッチコックの説得に応じて2年ぶりに銀幕復帰した。
『泥棒成金』
(1955年)
グレース・ケリー、ケーリー・グラント
撮影時
ケーリー・グラントとグレース・ケリーのキス・シーン
・ブラック・コメディ『ハリーの災難』
(1955年)
では、
シャーリー・マクレーン
が銀幕デビュー。本作の作曲家バーナード・ハーマンとは、以後、『マーニー』までの全作品で組むこととなった。
『ハリーの災難』(1955年)
左から、ジョン・フォーサイス、シャーリー・マクレーン、
ミルドレッド・ナトウィック、エドマンド・グウェン
撮影時
シャーリー・マクレーンと
・『知りすぎていた男』
(1956年)
は、イギリス時代の『暗殺者の家』
(1934年)
を リメイクした作品。ヒロインの
ドリス・デイ
が歌った 「ケ・セラ・セラ」が大ヒットし、アカデミー賞歌曲賞を受賞した。
『知りすぎていた男』
(1956年)
ドリス・デイ、ジェームズ・ステュアート
プレミア時
ジェームズ・ステュアート、ドリス・デイと
『間違えられた男』
(1956年)
ヘンリー・フォンダ
、
ヴェラ・マイルズ
撮影時
ヘンリー・フォンダ(手前)と
・
『めまい』
(1958年)
は、公開当時の評価は決して高いものではなかったが、近年では、ヒッチコック作品の最高傑作との声もある作品。
『めまい』(1958年)
ジェームズ・ステュアート、
キム・ノヴァク
撮影時
キム・ノヴァク
と
・
『北北西に進路を取れ』
(1959年)
。御年60歳、ヒッチコックの集大成とも言われている作品。ハイライトであるラシュモア山国立記念公園での撮影許可が得られず、その意 趣返しか? 宣伝ポスターに歴代大統領
(左から、ワシントン、ジェファーソン、ルーズベルト、リンカーン)
と 並び、ヒッチコックの顔が描かれた。この悪戯心もヒッチコックならでは。
『北北西に進路を取れ』(1959年)
宣伝ポスターの一部
撮影時。左から、ケーリー・グラント、
エヴァ・マリー・セイント、
ジェームズ・メーソン
(右)と
・
『サイコ』
(1960年)
は、前 作の約1/5という低予算で製作されたが、ヒッチコック作品では『裏窓』に次ぐ大ヒットとなった。アカデミー賞の監督賞(5度目)など4部門でノミネートされたが、受賞には至らなかった。
『サイコ』(1960年)
アンソニー・パーキンス
撮影時
アンソニー・パーキンスと
・パニック映画の古典
『鳥』
(1963年)
のヒロイン、ティッピ・ヘドレンは、次作『マーニー』でもヒロインに起用され、1960年代のヒッチコック作品を代表するヒロインになった。カンヌ映画祭の招待作品。
『鳥』(1963年) ティッピ・ヘドレン
ティッピ・ヘドレンと共にフランス(カンヌ)へ
『マーニー』(1964年)
ティッピ・ヘドレン、
ショーン・コネリー
撮影時
ショーン・コネリーと
『引き裂かれたカーテン』(1966年)
ポール・ニューマン
、ジュリー・アンドリュース
撮影時
ジュリー・アンドリュース、ポール・ニューマンと
『ト パーズ』
(1969年) フレデリック・スタフォード、
クロード・ジャド、ダニー・ロバン
撮影時
出演者たちと
『
フレンジー』(1972年)
バーバラ・リー・ハント
撮影時
自身のマスクと
・53作目の『ファミリー・プロット』
(1976年)
が、「サスペンス映画の神様」ヒッチコック最後の作品となった。
『ファミリー・プロット』(1976年)
バーバラ・ハリス、ブルース・ダーン
撮影時
イーディス・ヘッド
(衣装デザイナー)と
・自らの名前で観客を呼べる稀代の人気監督、名監督だったヒッチコック。アカ デミー賞の監督賞に5度もノミネートされたが、何れも受賞は逃した。
本人は、『
私は 「殺し過ぎた男」 だから監督賞を頂けないのでしょう。
』 とのコメントを残している。
(左の写真)「定本 映画術」(1966年)を著作した
フランソワ・トリュフォー
と
・1967年度のアカデミー賞でアービング・G・タルバーグ賞を受賞。授賞式でのスピーチは、ただ一言「サンキュー」だった。
何故名誉賞ではなかったのか? 生涯、オスカー像とは縁がなかった。
(右の写真) 前年の同賞受賞者
ロバート・ワイズ
監督と
・1972年、ゴールデングローブ賞のセシル・B・デミル賞を受賞。
・1979年、AFI(アメリカ映画協会)の生涯功労賞を受賞。授賞式のホストはイングリッド・バーグマンが務めた。
AFIの授賞式でケーリー・グラントと
イングリッド・バーグマン と
・1955年から、自ら解説と総合プロデュースを務めたTV番組 「
Alfred Hitchcock Presents
」の放映がスタート。日本でも「ヒッチコック劇場」のタイトルで放映され大人気に。日本版の吹替えを担当した熊倉一雄さんの味わい深い声も印象的だった。番組オープニングの「操り人形の葬送行進曲」 は、アカデミー賞授賞式でヒッチコックが登場する時にも演奏されるなど、彼のテーマ曲のようになった。
(左の写真) 「ヒッチコック劇場」のオープニング
ヒッチコック監督のトリビュート動画。音楽は 「操り人形の葬送行進曲」
・
1980年
、
80歳
で他界。
アーメン
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