20世紀・シネマ・パラダイス
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スタンリー・キューブリック
Stanley Kubrick
1928-1999 (アメリカ)
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◆ 代表作
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博士の異常な愛情 Dr. Strangelove
(1964年/英・米)
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2001年宇宙の旅 2001: A Space Odyssey
(1968年/英・米)
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時計じかけのオレンジ
A Clockwork Orange
(1971年/英・米)
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バリー・リンドン
Barry Lyndon
(1975年/英・米)
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シャイニング
The Shining
(1980年/英・米) |
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フルメタル・ジャケット
Full Metal Jacket
(1987年/英・米)
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◆ 映画史で異彩を放つ完全主義のカリスマ
・1928年、ニューヨークのマンハッタンで、ユダヤ人の両親の長男として生れた。父親は産婦人科の開業医で裕福な家庭だった。
13歳の時にカメラを買ってもらい、写真撮影に熱中した。
学校生活にはあまり馴染めなかったようで、高校卒業後、ニューヨーク市立大学シティカレッジの夜間部に入学したが、間もなく中退した。
(右の写真) 子供の頃のキューブリック。6歳年下の妹バーバラと
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・ジャズのドラマーを目指していたが、1945年、17歳の時に写真が雑誌 「Look」に売れた。
子供の頃からチェスの愛好家で、チェスの賭けゲームや写真を売って小遣いを稼いでいたが、1946年、「Look」 誌の見習い写真家となり、その後、1951年に退社するまで同誌の専属写真家として活躍した。
(左の写真) 「Look」 誌のカメラマン時代のキューブリック |
・元々映画好きだったが、映画を鑑賞しているうちに、「今の奴ら (当時の監督たち) よりも上手く撮れる 」 と思うようになり、数多くの書物も読み、映画について独学した。
・貯金だけでは足りず、友人から借金をして、16分の短編ドキュメンタリー 『拳闘試合の日』 (1951年) を製作、監督、脚本、撮影、録音、編集した。製作費3,900ドルの作品が4,000ドルで売れ、「Look」 誌を退社。
映画監督となり、2本の短編ドキュメンタリー 『空飛ぶ牧師』 (1951年)、『海の旅人たち』 (1952年) を撮った。
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・『恐怖と欲望』 (1953年) …伯父から出資してもらい自主製作した初の劇場用映画。キューブリックが作品に不満で、劇場公開後にフィルムを回収していたため、長い間、幻のデビュー作とされていた。1993年、回収漏れのフィルムが発見された時には著作権が失効しており、キューブリックは 「アマチュアの作品 」 との声明を出した。
日本では2013年に初公開された。
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ヴァージニア・リース と フランク・シルヴェラ
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キューブリック監督 (後方右から2番目)。スタッフ、キャストと
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・『非情の罠』 (1955年) … ギャングの情婦を救い出そうとするボクシングの選手を描いたフィルム・ノワールの自主製作作品。キューブリックが自ら撮影したカメラワークは高く評価された。
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ジェイミー・スミス と アイリーン・ケイン
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撮影時。キューブリック監督 と アイリーン・ケイン
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・映画製作者を志望していたジェームズ・B・ハリスと出会い、製作会社 「ハリス=キューブリック・プロダクション」 を設立。
ニューヨークからハリウッドへ移り、より本格的に映画を撮ることになった。
(右の写真) キューブリック監督(左) と ジェームズ・B・ハリス |
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・『現金に体を張れ』 (1956年) … キューブリック初のハリウッド映画。労働組合との兼ね合いで、監督と撮影監督の兼任が許されず、キューブリックは監督業に専念した。
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・『現金に体を張れ』
は、興行的には成功したとは言えなかったが、当時、MGM社の製作部門の責任者だったドア・シャリーが作品を気に入り、「ハリス=キューブリック・プロダクション」 の新作に資金
提供することを申し出ていた。しかし、その後の同社の組織・人事の改編でドア・シャリーが解任され、資金提供の話はお流れとなった。
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・『突撃』 (1957年) … 第1次世界大戦のフランス軍を舞台にした戦争映画で、キューブリックの脚本に感銘したカーク・ダグラスとコラボした作品。
キューブリックは脚本を数名のスター俳優に送り届けていた。まだ無名でハリウッドでは人脈もないキューブリックとハリスでは十分な製作費を工面すること出来なかったのだろう。カーク・ダグラスが共同製作者となり、ユナイテッド・アーチスツ社から資金調達して製作された。
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カーク・ダグラス
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撮影時のキューブリック監督
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・私生活では、最初の結婚 (1948-1951年)、2度目の結婚 (1955-1957年)とも長続きしていなかった。 |
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1958年、『突撃』 に出演したドイツ人の女優・歌手クリスティアーヌ・ハーランと結婚。娘を2人授かり、キューブリックが亡くなるまで連れ添った。
尚、後年のキューブリック作品で製作者として名を連ねているヤン・ハーランはクリスティアーヌの弟。
(左の写真) 『突撃』 撮影時。右から時計回りに、カーク・ダグラス、
クリスティアーヌ・ハーラン、キューブリック監督 |
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・キューブリックの才能を見込んだマーロン・ブランドから 『片目のジャック』 (1961年)の監督をオファーされたが、最終的に2人の意見が対立し、キューブリックは解任された。
(右の写真) キューブリック監督(左) と マーロン・ブランド
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・『スパルタカス』 (1960年)
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当初の監督アンソニー・マンが、製作総指揮者でもあった主演のカーク・ダグラスと衝突して降板し、キューブリックが監督することになった。まだ確固たる名
声を確立していない31歳の若輩監督が、製作費1,200万ドルの大作を任されるのは、当時としては異例の大抜擢だった。
アカデミー賞の6部門でノミネートされ、助演男優賞 (ピーター・ユスティノフ)、撮影賞、美術監督・装置賞(カラー部門)、衣装デザイン賞(カラー部門) の4部門で受賞した。
* アンソニー・マン … 『ウィンチェスター銃’73』 (1950年)、『グレン・ミラー物語』 (1954年) 等、ジェームズ・ステュアートと数多く組んだ。
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カーク・ダグラス |
撮影時のキューブリック監督(左) と カーク・ダグラス
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・アカデミー賞を受賞したカメラマンのラッセル・メティは、メロドラマの巨匠ダグラス・サーク監 |
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督と数多くの作品で組み、『黒い罠』 (1958年/監督:オーソン・ウェルズ) の伝説の長回しを撮影したベテランだったが、キューブリックは彼にほとんど自由を与えず、撮影中は険悪なムードだったという。
(左の写真) 『スパルタカス』 撮影時。キューブリック監督(手前)
と ラッセル・メティ(後) |
・『スパルタカス』 により、メジャーの一流監督としての地位を確立したが、あくまでも雇われ監督であり、思い描いた通りに撮ることが出来なかったため、終生 「自分の作品ではない 」 と言い続けた。
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・次作はイギリスで撮ることになった。当時のイギリスは、映画産業を支援するため、一定の条件を満たせば助成金が得られる制度 (Eady Levy : 1957〜1985年) があったことが1番の理由だったようである。
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・『ロリータ』 (1962年) …
イギリスでの最初の作品で、原作はロシアの亡命作家ウラジーミル・ナボコフの同名小説。脚色家としてクレジットされたのはナボコフだが、キューブ
リックは自作の脚本で撮影したという。検閲等の関係で、原作の性的な部分は描写出来なかった。製作者ジェームズ・B・ハリスとの最後のコラボ作品。ヒ
ロイン
に抜擢された当時15歳のスー・リオンが話題をさらった。
* ジェームズ・B・ハリス … 監督業に進出し、『駆逐艦ベッ
ドフォード作戦』 (1965年)等を撮った。
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スー・リオン と ジェームズ・メーソン
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左から、ジェームス・メーソン、キューブリック監督、スー・リオン
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<脚本> … 雇われ監督だった 『スパルタカス』 以外の全作品の脚本を執筆した。『2001年宇宙の旅』 は
アーサー・C・クラークとの協業によるオリジナル脚本だが、小説を脚色することを好み、時には原作者から |
批判される事もあった。
ジャンルは多岐にわたり、古典もあれば、同時代の作品もある。映画の題材を求めて、相当な数の書物を読んでいた事が窺い知れる。
製作されなかった 『ナポレオン』 (後述) の脚本を執筆するために、ナポレオンに関する数百冊にも及ぶほとんど全ての書物を読んでいたとも言われている。
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ピーター・セラーズ |
撮影時。キューブリック監督(左) と ピーター・セラーズ |
・2作品続けてイギリスで撮ったキューブリックは、1965年、同国で家を購入し、亡くなるまでイギリスに住み続けることになった。Eady Levy 制度があったこと、アメリカではスタジオの権限が強く、思い通りに映画が撮れないこと、アメリカよりも治安が良いこと、等々が理由だったと言 |
| われている。また、友人を飛行機事故で亡くして以来、飛行機に乗ることを嫌っており、以後の作品は全てイギリスで撮り、編集等は自宅でおこなった。 (左の写真) 1978年から住んでいたハートフォードシャーの自宅 |
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