20世紀・シネマ・パラダ イス

startbar
Peter_Sellers

ピーター・セラーズ

Peter Sellers

 
1925-1980 (イギリス )

 

starbar

     代表作

Dr._Strangelove-1  博士の異常な愛情
 Dr. Strangelove
 (1964年/英・米)
A_Shot_in_the_Dark  暗闇でドッキリ
  A Shot in the Dark
  (1964年/アメリカ)
The_Pink_Panther_Strikes_Again  ピンク・パンサー3
 The Pink Panther
  
Strikes Again
 (1976年/英・米)
Being_There  チャンス
 Being There
 (1979年/アメリカ)

     ◆  ピンク・パンサー・シリーズのクルーゾー警部

 ・1925年、イギリスのハンプシャー州生れ。Peter は死産だった兄の名前で、本名は Richard Henry Sellers 。 
 両親がミュージック・ホールの芸人だったため、幼い頃から舞台に出演していた。14歳で学校教育を終え、劇場の裏方として働き始めたが、ドラムをマスターすると、ジャズ・バンドの一員として軍人の慰問ツアーに参加した。
 18歳の時に英国空軍に入隊。視力が悪くパイロットになれなかったため、慰問班に加入。人気者となり、プロの芸人を目指すことになった。
 (右の写真) 子供の頃のピーター・セラーズ
Peter_Sellers-4

Let's_Go_Crazy
 ・戦後、舞台活動をスタートしたが、鳴かず飛ばずの状況だったため、自らBBCに売り込み、ラジオの仕事を得た。
 BBCラジオのお笑い番組 「The Goon Show (1951年〜)が爆発的な人気を得て、同番組のレギュラー出演者たちの映画 『Let's Go Crazy (1951年) で銀幕デビューした。
 (左の写真) 『Let's Go Crazy 』 でグルーチョ・マルクスに扮したピーター・セラーズ

 ・1951年、オーストラリア人の女優アン・ハウと結婚。
 長男、長女を授かったが…。
 (右の写真) 最初の妻アン・ハウと
Anne_Howe(Anne_Hayes)

I'm_All_Right_Jack
 ・アレック・ギネス主演の 『マダムと泥棒』 (1955年) で喜劇俳優としての評価を確立し、『ピーター・セラーズの労働組合宣言』 (1959年/日本劇場未公開) で、英アカデミー賞の主演男優賞を受賞した。
 (左の写真) 『ピーター・セラーズの労働組合宣言』

The_Millionairess Lolita
『求むハズ』 (1960年) ソフィア・ローレンと 『ロリータ』 (1962年/監督:スタンリー・キューブリック
ジェームズ・メーソン(右)と

 ・『求むハズ』 (1960年) で共演したソフィア・ローレンに恋してしまい、それが原因でアン・ハウと離婚 (1963年に離婚が成立)
   
 ・『ピンクの豹』 (1963年/監督:ブレイク・エドワーズ で、キャリア最大の当たり役となるジャック・クルーゾー警部を初めて演じた。
 主役の怪盗ファントムを演じたデヴィッド・ニーヴンを食う怪演で、英アカデミー賞の主演男優賞、ゴールデン・グローブ賞の主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門)にノミネートされた。
 (右の写真) 『ピンクの豹』 キャプシーヌと
The_Pink_Panther

 ・ブラック・コメディの名作 『博士の異常な愛情』 (1964年/監督:スタンリー・キューブリックでは1人で3役を演じ、カメレオン俳優ぶりを発揮。英アカデミー賞の主演男優賞、米アカデミー賞の主演男優賞にノミネートされた。
  (下の写真) 『博士の異常な愛情』
Dr._Strangelove-3
Dr._Strangelove-4
Dr._Strangelove-2

 ・『暗闇でドッキリ』 (1964年/監督:ブレイク・エドワーズ) は、セラーズ扮するクルーゾー警部が主役に昇格した ‟ピンク・パンサー・シリーズ” の2作目。
 (右の写真) 『暗闇でドッキリ』 エルケ・ソマーと
A_Shot_in_the_Dark-2

Britt_Ekland
 ・1964年、スウェーデン出身の女優ブリット・エクランドと再婚。娘を授かったが、1968年に離婚。ピーターのDV (家庭内暴力)が原因だったと言われている。
 * ブリット・エクランド … 『007 黄金銃を持つ男』 (1974年) のボンド・ガール。ロック歌手ロッド・スチュワートとのロマンスも有名。
 (左の写真) 2番目の妻
ブリット・エクランドと

 ・1964年、ブリット・エクランドと夫婦の営み中、心臓発作に見舞われた。性的興奮を高めるドラッグを服用していたという。
 撮影中だった 『ねぇ!キスしてよ』 (1964年/監督:ビリー・ワイルダー は、レイ・ウォルストンにとって代わられた。
 (右の写真) ビリー・ワイルダー監督(左)と
Kiss_Me,_Stupid

 ・病から復帰後、ピーター・オトゥールとの共演作 『何かいいことないか子猫チャン』(1965年)、『007 カジノロワイヤル』 (1967年) といった話題作に出演。イギリスでトップクラスの人気を誇るスターの1人となった。
What's_New_Pussycat
Casino_Royale
『何かいいことないか子猫チャン』 (1965年) キャプシーヌと
『007 カジノロワイヤル』 (1967年) ウルスラ・アンドレス

Peter_Sellers_CBE
1966年、CBE勲章を授かる
 
The_Party
The_Magic_Christian
『パーティ』 (1968年/監督:ブレイク・エドワーズ)
『マジック・クリスチャン』 (1970年) リンゴ・スター(左)と

 ・1970年、ファッション・モデルのミランダ・クアリーと3度目の結婚をしたが、1974年に散婚。
 (右の写真) 3番目の妻ミランダ・クアリーと
Miranda_Quarry

Liza_Minnelli
 ・ミランダ・クアリーとの結婚生活が破綻した後、ライザ・ミネリと恋に落ちたが、2人の恋愛は長くは続かなかった。
 (左の写真) ライザ・ミネリと

 ・1970年代に入ると出演作の興行成績が落ち込み、キャリアが低迷したが、11年ぶりにクルーゾー警部に扮した 『ピンク・パンサー2』 (1975年) が大ヒット。更に、『ピンク・パンサー3』 (1976年) はキャリア最大のヒット作となり、2年連続でゴールデン・グローブ賞の主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門) にノミネートもされた。
 (右の写真) クルーゾー警部に扮したピーター・セラーズ
Jacques_Clouseau

Lynne_Frederick
 ・1977年、29歳年下の女優リン・フレデリックと4度目の結婚。約1ヶ月後、2度目の心臓発作に見舞われ、以後、ペースメーカーを着用することになった。
 リン・フレデリックとは 『ゼンダ城の虜』 (1979年) で共演もした。
 (左の写真) 4番目の妻リン・フレデリックと

 ・『チャンス』 (1979年/監督:ハル・アシュビー) での演技は絶賛され、キャリア後期の代表作となった。
 英・米のアカデミー賞の主演男優賞にノミネートされ、ゴールデン・グローブ賞の主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門) を受賞した。
 (右の写真) 『チャンス』 シャーリー・マクレーン
Being_There-2

The_Fiendish_Plot_of_Dr._Fu_Manchu
 ・1980年、心臓発作により、54歳で他界。

 ・遺作となった 『天才悪魔フー・マンチュー』 (1980年) が没後に公開され、過去の映像を使用した 『ピンク・パンサー X』 が1982年に公開された。
 (左の写真) 1人2役を演じた 『天才悪魔フー・マンチュー』

 ・若い頃は柔道の愛好家で、ロンドン柔道協会の副会長に就任 (1962年)していた。

 ・1964年、男性で初めて雑誌 「PLAYBOY」 の表紙を飾った。
 
 ・累計で約80台もの車を所有していたカー・マニアだった。
  (右の写真) 愛車のフェラーリと
Peter_Sellers-5
Peter_Sellers-6
 ・イギリスでは、チャップリン以 来の世界的に名を馳せた喜劇俳優として人気を博した半面、気難しい性格で、特に晩年は、扱いづらい俳優として評判だったらしい。 ‟ピンク・パンサー・シリーズ” のブレイク・エドワーズ監督とも度々衝突し、撮影中、お互いに口も利かず、メモでコミュニケーションを取っていたこともあったという。
 (左の写真) クルーゾー警部に扮したピーター・セラーズ
 ・DV (家庭内暴力)に関する話も多く伝わっており、かなり屈折した人物だったようである。
 躁鬱病を患っていたとも言われているので、もしかしたら、ドラッグの副作用により、身体だけでなく、精神も蝕まれていたのも知れない。
 (右の写真) 『チャンス』 出演時のピーター・セラーズ
Peter_Sellers-7

 ・2004年、伝記映画 『ライフ・イズ・コメディ! ピーター・セラーズの愛し方』 が公開された。

Peter_Sellers-2
Peter_Sellers-3

HOME