20世紀・シネマ・パラダイス
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スーザン・ヘイワード
Susan Hayward
1917-1975(アメリカ)
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◆ 代表作
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わが心に歌えば
With a Somg in My Heart
(1952年/アメリカ) |
キリマンジャロの雪
The Snows of Kilimanjaro
(1952年/アメリカ) |
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明日泣く
I'll Cry Tomorrow
(1955年/アメリカ)
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私は死にたくない
I Want to Live !
(1958年/アメリカ)
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◆ 5度目のノミネートで念願のオスカーを獲得
・1917年、ニューヨーク州生れ。本名はEdythe Marrenner。高校卒業後モデルをしていたが、1937年、『風と共に去りぬ』のオーディションを受けるためにハリウッドへ。同作の役を得ることは出来なかったが、エキストラとして映画に出演し始め、ゲーリー・クーパー主演の『ボー・ジェスト』(1939年)で初めて大きな役を得た。
(右の写真)『ボー・ジェスト』右から時計回りに、レイ・ミランド、スーザン・ヘイワード、ロバート・プレストン、ゲーリー・クーパー
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・『Smash-Up, the Story of a Woman』(1947年)でアカデミー賞主演女優賞に初のノミネート。結婚して家庭に入った後、アルコールに溺れていくナイトクラブの歌手を演じた。
(右の写真)『Smash-Up, the Story of a Woman』 |
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・『愚かなり我が心』(1949年)でアカデミー賞主演女優賞に2度目のノミネート。軍事訓練中に事故死した恋人の子供をお腹に宿しているのを伏せたまま、別の男性と結婚した女性を演じた。原作はJ・D・サリンジャーの「コネティカットのひょこひょこおじさん」。
(左の写真)『愚かなり我が心』 ダナ・アンドリュースと |
・『わが心に歌えば』(1952年)で3度目のノミネート。第2次世界大戦中、兵士の慰問活動に向かうために搭乗した飛行機が墜落し、左足の膝下を失った人気歌手ジェーン・フローマン(1907〜1980年)の伝記映画。歌声はフローマン本人が吹替えた。ヘイワードはゴールデン・グローブ賞の主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)を受賞した。
(右の写真)『わが心に歌えば』 |
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『キリマンジャロの雪』(1952年)
グレゴリー・ペックと
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『悪の花園』(1954年)
ゲーリー・クーパーと
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・『明日泣く』(1955年)で4度目のノミネート。1920〜1930年代前半、ブロードウェイや映画で活躍しながらも、アルコールに溺れて転落したリリアン・ロス(1910〜1980年)が1954年に出版し、ベストセラーとなった半生記の映画化作品。ヘイワードはカンヌ国際映画祭の女優賞を受賞した。
* リリアン・ロス … マルクス兄弟の『けだもの組合』(1930年)等に出演。(左の写真)『明日泣く』 リチャード・コンテと
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『わが心に歌えば』(1952年)で演じた
ジェーン・フローマン(左)と
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『明日泣く』(1955年)で演じた
リリアン・ロス(左)と
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・『私は死にたくない』(1958年/監督:ロバート・ワイズ)で念願のアカデミー賞主演女優賞を受賞。刑が執行されるまで無罪を主張し続けた実在の死刑囚を演じた。
(右の写真)『私は死にたくない』 |
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・受賞後、「これまではオスカーのために仕事をしてきた。これからは楽しみやお金のために仕事をしていくわ」と喜びを爆発させた。
・
私生活では、1944年に俳優と結婚し、双子の男子を授かったが1954年に離婚。翌1955年、睡眠薬により自殺を図ったこともあった。1957年、元
連邦捜査官の農場主と再婚。ジョージア州の農場に移り住んでからも、ほぼ1年に1作品のペースで映画に出演していたが、1966年に夫が亡くなって
からは銀幕から遠ざかった。
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・ウィリアム・ホールデン主演の『復讐の荒野』(1972年)で5年ぶりに銀幕復帰した矢先、脳腫瘍を発病。投薬治療を続けたが、1973年度のアカデミー賞授賞式でチャールトン・ヘストンと一緒に主演女優賞のプレゼンンターを務めたのが最後の仕事となった。
・1975年、57歳で他界。
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