20世紀・シネマ・パラダイス
マレーネ・ディートリッヒ
Marlene Dietrich
1901-1992 (ドイツ/アメリカ)
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・戦後は歌手としての活動が盛んになったため、映画出演は少なくなったが、名監督たちの作品で圧倒的な存在感を銀幕に残した。
『狂恋』(1946年/フランス)
ジャン・ギャバン
と
『異国の出来事』(1948年/監督:
ビリー・ワイルダー
)
ジーン・アーサー
(右)と
『舞台恐怖症』
(1950年/監督:
アルフレッド・ヒッチコック
)
ジェーン・ワイマン
(右)と
『無頼の谷』(1952年/監督:
フリッツ・ラング
)
・戦後の代表作となったのが
『情婦』
。当時56歳ながら“脚線美”も披露した。「
私が最高の映画監督と認 めるのはスタンバーグ監督とワイルダー監督だけ
」との発言も。
『八十日間世界一周』(1956年)
『情婦』(1957年/監督:ビリー・ワイルダー)
・古くからの友人
オーソン・ウェルズ
もディートリッヒがその才能を認めていた1人。『黒い罠』に友情出演した。
『黒い罠』(1958年/監督:オーソン・ウェルズ)
『ニュールンベルグ裁判』(1961年/監督:
スタンリー・クレイマー
)
スペンサー・トレーシー
と
・デビッド・ボウイ主演の西ドイツ映画『ジャスト・ア・ジゴロ』
(1979年)
が最後の出演作となった。
『パリで一緒に』 (1964年)
『ジャスト・ア・ジゴロ』(1979年)
・幼い頃からピアノやバイオリンを習い、女優になる前はバイオリニストを目指していたディートリッヒ。戦後は歌手として精力的に活動した。
ブロードウェイでもコンサートを行い、1968年にトニー賞特別賞を受賞。
1970年(大阪万博)、1974年に来日し、コンサートをおこなった。
*
代表曲
♫
「
フォーリング・イン・ラヴ・アゲイン」
… 出世作、映画
『嘆きの天使』
の中で歌われた曲。
♫
「リリー・マルレーン」 … 戦場の兵士が故郷の恋人のことを想うドイツの歌。第2次世界大戦中、連合国兵士慰問のため、前線へ赴いた時に英語で歌い流行した。また、
ドイツ
兵を意気消沈させるために、連合国側がラジオでドイツ語版を流したとの伝説もある。
♫
「花はどこへ行った」 … アメリカのフォーク歌手ピート・シーガー作曲
(1956年)
のカヴァー。ベトナム戦争時に反戦の代表曲としてヒットした。
・1960年、コンサートのために祖国ドイツへ帰国。迎えるドイツ国民の中には、母国が生んだスーパースターとして歓迎する人もいれば、「売国奴」、「裏切り者」として非難する人もあったという。
ナチスの度重なる帰国要請を断固として拒否したディートリッヒは、 賞賛すべき人であると同時に、過去の傷を思い出させる人でもあったようだ。
ディートリッヒは大好きだったという
反戦歌
「花はどこへ行った」
も歌ったが、ドイツの聴衆の中には複雑な思いを抱いた人も多かったという。
・1975年に足を骨折するまでコンサート活動を続けていたが、祖国ドイツへ再び戻ることはなかった。引退後はパリで暮らし、公にその姿を一切見せなかったが、ベルリンの壁が崩壊した時
(1989年)
には歓喜していたという。
・自身のドキュメンタリー映画『MARLENE/マレーネ』
(1984年/監督:マクシミリアン・シェル)
のナレーションを行った。この頃はほとんど寝たきりの状態だったという。
(右の写真)『MARLENE/マレーネ』のポスター
・
1992年
、
90歳
で他界。
彼女の希望により、遺骨はベルリンの母の墓の横に葬られた。
墓碑には、「
人生の思い出が刻まれた場所 ここに私はいる
」と刻まれている。
・死後、彼女の自宅から、戦時中に
ジャン・ギャバン
から送られた恋文が発見され、大きな話題となった。
・20世紀を代表するエンターテイナー、マレーネ・ディートリッヒ。
AFI(アメリカ映画協会)が1999年に選定した
「伝説のスター・ベスト50」で、女優部門の第9位に選出。
(左の写真)代表作『モロッコ』出演時
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