20世紀・シネマ・パラダイス

Megaphonebar
George_Stevens

ジョージ・スティーヴンス

George Stevens

  1904-1975 (アメリカ)

Megaphonrbar


  ◆ 代表作

Swing_Time
Woman_of_the_Year
有頂天時代
Swing Time
(1936年/アメリカ)
女性No.1
Woman of the Year

(1942年/アメリカ)
The_Talk_of_the_Town
I_Remember_Mama
希望の降る街
The Talk of the Town

(1942年/アメリカ)
ママの想い出
I Remember Mama
(1948年/アメリカ)
A_Place_in_the_Sun
Shane_1953
陽のあたる場所
A Place in the Sun
(1951年/アメリカ)
シェーン
Shane
(1953年/アメリカ)
Giant_1956
The_Diary_of_Anne_Frank_1959
ジャイアンツ
Giant

(1956年/アメリカ)
アンネの日記
The Diary of Anne Frank

(1959年/アメリカ)


    様々なジャンルで名作を撮ったハリウッドの巨匠

 ・1904年、カリフォルニア州生れ。両親が舞台俳優で劇団を営んでおり、彼も俳優や舞台マネージャーを務めていたが、両親が映画俳優に転身。彼は17歳の時にカメラマン助手として映画界に入った。

 ・1927年、ハル・ローチ社に入り、‟極楽コンビ”ローレル&ハーディ主演作のカメラマンを務めた後、短編『Ladies Last(1930年)で監督デビューをした。
 (右の写真)左から、オリバー・ハーディ、ジョージ・スティーヴンス、スタン・ローレル。(1929年)
Laurel_and_Hardy

 ・1932年、ユニヴァーサル社に移り、数本の短編を撮った後、初の長編となるコメディ『海上御難の巻』(1933年)を監督。初めて名前がクレジットされた。

 ・RKO社に移籍。同社での5本目の長編、コメディ・ロマンス『乙女よ嘆くな』(1935年)がアカデミー賞の作品賞にノミネートされ、出世作となった。主演のキャサリン・ヘップバーンは気心の知れたジョージ・キューカー監督を希望していたがスケジュールが合わず、スティーヴンス監督が起用された。彼の父親も端役で出演している。
Alice_Adams
Alice_Adams-2
『乙女よ嘆くな』(1935年)
キャサリン・ヘップバーン、フレッド・マクマレー
『乙女よ嘆くな』撮影時
キャサリン・ヘップバーンと

 ・バーバラ・スタンウィックが女性射撃手アニー・オークレイに扮したウエスタン『愛の弾丸』(1935年)を監督。
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Annie_Oakley-2
『愛の弾丸』(1935年)
バーバラ・スタンウィック、プレストン・フォスター
『愛の弾丸』撮影時
バーバラ・スタンウィックと

 ・RKO社のドル箱だったフレッド・アステアジンジャー・ロジャースの6作目『有頂天時代』を監督。スティーヴンス監督はハリウッドきっての完璧主義者として知られていたが、フレッド・アステアもダンスに関しては完璧主義者。ダンス・シーンを何回も撮り直し、ジンジャー・ロジャースの靴は血で赤く染まったとのエピソードも。
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Swing_Time-2
『有頂天時代』(1936年)
ジンジャー・ロジャース、フレッド・アステア

『有頂天時代』撮影時
フレッド・アステア(左)、ジンジャー・ロジャースと


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Quality_Street-2
『偽装の女』(1937年)
キャサリン・ヘップバーン、フランチョット・トーン

『偽装の女』撮影時
キャサリン・ヘップバーンと
A_Damsel_in_Distress
A_Damsel_in_Distress-2
『踊る騎士』(1937年)
ジョーン・フォンテイン、フレッド・アステア

『踊る騎士』撮影時
ジョーン・フォンテインと
Vivacious_Lady
Vivacious_Lady-2
『モーガン先生のロマンス』(1938年)
ジンジャー・ロジャース、
ジェームズ・ステュアート
『モーガン先生のロマンス』撮影時
ジェームズ・ステュアート(中央)、 ジンジャー・ロジャースと
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Gunga_Din-2
『ガンガ・ディン』(1939年) ケーリー・グラント
ヴィクター・マクラグレン、ダグラス・フェアバンクス・ジュニア

『ガンガ・ディン』撮影時
ジョーン・フォンテインと

Vigil_in_the_Night
Vigil_in_the_Night-2
『病院の一夜』(1940年)
キャロル・ロンバード
『病院の一夜』撮影時
ブライアン・エイハーン(中央)、キャロル・ロンバードと


 ・映画監督として独立し、コロンビア社で3作撮る契約を締結。1作目は『愛のアルバム』(1941年)。
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Penny_Serenade-2
『愛のアルバム』(1941年)
アイリーン・ダン、ケーリー・グラント
『愛のアルバム』撮影時。スティーヴンス監督(手前左)
ケーリー・グラント、アイリーン・ダン(後)

 ・MGM社で『女性No.1』(1942年)を監督。主演のキャサリン・ヘップバーンが、初共演となるスペンサー・トレイシーとの相性を考えてスティーヴンス監督を指名した。
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『女性No.1』(1942年)
スペンサー・トレイシー、キャサリン・ヘップバーン
『女性No.1』撮影時
キャサリン・ヘップバーン、スペンサー・トレイシー(右)と

 ・コロンビア社での2作目は、ジーン・アーサーをヒロインに起用したコメディ・ロマンス『希望の降る街』(1942年)。アカデミー賞の作品賞にノミネートされた。
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『希望の降る街』(1942年)
ロナルド・コールマン、ジーン・アーサー、ケーリー・グラント
『希望の降る街』撮影時。左から、スティーヴンス監督、
ケーリー・グラント、ジーン・アーサー、ロナルド・コールマン

 ・コロンビア社での3作目。ジーン・アーサーと再び組んだコメディ・ロマンス『陽気なルームメイト』(1943年)もアカデミー賞の作品賞候補となり、監督賞に初ノミネートもされた。
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The_More_the_Merrier-2
『陽気なルームメイト』1943年)
ジーン・アーサー、ジョエル・マクリー
『陽気なルームメイト 』撮影時
ジョエル・マクリー(左)、ジーン・アーサーと

Liberty_Films
 ・第2次世界大戦中は陸軍の映画班に所属し、戦時ドキュメンタリー映画を3本撮った。
 戦後、フランク・キャプラウィリアム・ワイラー等とリバティ・フィルムズ社を設立したが、キャプラ監督の『素晴らしき哉、人生!』(1946年)の興行不振などで同社は解散した。
 (左の写真)リバティ・フィルムズ社の創設者。左から、フランク・キャプラ、ウィリアム・ワイラー、ジョージ・スティーヴンス、サミュエル・J・ブリスキン

 ・古巣のRKO社で『ママの想い出』(1948年)を監督。主役のアイリーン・ダンからの指名だった。
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『ママの想い出』(1948年)
アイリーン・ダン、バーバラ・ベル・ゲデス
『ママの想い出』撮影時
アイリーン・ダンと

 ・1950年代はキャリアの絶頂期となった。『陽のあたる場所』(1951年/パラマウント社)は、アカデミー賞の作品賞など9部門でノミネートされ、6部門で受賞。作品賞は逃がしたが、スティーヴンス監督は監督賞を受賞した。悲恋ドラマの古典的名作。
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『陽のあたる場所』(1951年)
モンゴメリー・クリフトエリザベス・テイラー

『陽のあたる場所』撮影時
モンゴメリー・クリフト(中央)、エリザベス・テイラーと

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『生きるためのもの』(1952年/MGM)
ジョーン・フォンテイン、レイ・ミランドテレサ・ライト

『生きるためのもの』撮影時
ジョーン・フォンテイン、レイ・ミランドと

 ・自身2作目のウエスタン『シェーン』(1953年/パラマウント社)を監督。おそらく、日本で最も人気の高い西部劇の名作。アカデミー賞では作品賞、監督賞など5部門でノミネートされたが、受賞は撮影賞のみにとどまった。
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『シェーン』(1953年)
ジーン・アーサー、アラン・ラッド

『シェーン』撮影時
アラン・ラッド(左)、ヴァン・ヘフリン(右)と

 ・テキサスの大牧場主一家の30年間を壮大なスケールで描いた『ジャイアンツ』(1956年/ワーナーブラザーズ社)は、スティーヴンス監督のキャリアで最大のヒット作となった。アカデミー賞では作品賞を含む9部門でノミネートされ、スティーヴンス監督は2度目の監督賞を受賞した。
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『ジャイアンツ』(1956年)
エリザベス・テイラー、ロック・ハドソン

『ジャイアンツ』撮影時
ジェームズ・ディーン(左)と

 ・『アンネの日記』(1959年/20世紀FOX社)では、前2作から一転、白黒の映像で、屋根裏の隠れ部屋で生活する人々の緊張感を見事に描写した。アカデミー賞では、作品賞、監督賞など8部門でノミネートされ、助演女優賞シェリー・ウィンタース、撮影賞(白黒部門)、美術賞(白黒部門)の3部門で受賞した。
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『アンネの日記』(1959年)
ミリー・パーキンス、ジョセフ・シルドクラウト

『アンネの日記』撮影時
ミリー・パーキンスと

 ・イエス・キリストの生涯を描いた『偉大な生涯の物語』(1965年/ユナイテッド・アーチスツ社)は、スティーヴンス監督の完璧主義者ぶりが災いした。製作費が膨れ上がり、タイアップしていた20世紀FOX社が途中で撤退。撮影した膨大なフィルムを編集するのに2年を要した。一部、デヴィッド・リーンが監督したシーンがある。
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The_Greatest_Story_Ever_Told-2
『偉大な生涯の物語』(1965年)
マックス・フォン・シドー(キリスト役)

『偉大な生涯の物語』の撮影現場

 ・大赤字となった『偉大な生涯の物語』の5年後、エリザベス・テイラー、ウォーレン・ベイティ主演の『この愛にすべてを』(1970年/20世紀FOX社)を撮ったが、芳しい成果を得られず、最後の作品となった。
The_Only_Game_in_Town
The_Only_Game_in_Town-2
『この愛にすべてを』(1970年)
エリザベス・テイラー、ウォーレン・ベイティ
『この愛にすべてを』撮影時
エリザベス・テイラー、ウォーレン・ベイティ(右)と

 ・全米監督組合理事長(1941-1943年、1946-1948年)、アカデミー協会会長(1958-1959年)の要職を歴任。

 ・‟赤狩り”の問題で全米監督組合内に対立が生じた際には、当時の理事長ジョゼフ・L・マンキーウィッツを支え、反赤狩りを掲げるリベラル派のために奔走した。
 (右の写真)『ジャイアンツ』撮影時のスティーヴンス監督
George_Stevens-2.

Stevens_Oscar  ・アカデミー賞の監督賞に5回ノミネートされ2回受賞。監督した7作品が作品賞の候補となったが受賞には至らなかった。
 『モーガン先生のロマンス』以後、『女性No.1』と『この愛にすべてを』を除く作品は製作も兼ねていたが、1953年度のアカデミー賞においてアービング・G・タルバーグ賞を受賞した。
 (左の写真)オスカー像を手にするスティーヴンス監督

 ・1975年70歳で他界。

 ・息子のジョージ・スティーヴンス・ジュニア(映画・TVの製作者)は、AFI(アメリカ映画協会)の初代会長(1967-80年)を務めるなど映画界に貢献。2012年、アカデミー賞名誉賞を受賞した。
 

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