20世紀・シネマ・パラダイス

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James Srewart

ジェームズ・ステュアート

James Stewart

   
1908-1997 (アメリカ)


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     代表作
 
Mr. Smith Goes to Washington-3 The_Philadelphia_Story
スミス都へ行く
Mr. Smith Goes to Washington
(1939年/アメリカ)
フィラデルフィア物語
The Philadelphia Story

(1940年/アメリカ)
It's a Wonderful Life Harvey
素晴らしき哉、人生!
It's a Wonderful Life

(1946年/アメリカ)
ハーヴェイ
Harvey
(1950年/アメリカ)
The Glenn Miller Story Rear_Window-2
グレン・ミラー物語
The Glenn Miller Story

(1953年/アメリカ)
裏窓
Rear Window
(1954年/アメリカ)
The_Spirit_of_St._Louis-3
Vertigo
翼よ!あれが巴里の灯だ
The Spirit of St. Louis
 
(1957年/アメリカ)
めまい
Vertigo
(1958年/アメリカ)


    「アメリカの良心」と称され敬愛されたジミー

 ・1908年、 ペンシルべニア州生れ。幼い頃は、手品師やアコーディオン奏者になることを夢見ていた。ティーンエイジになるとパイロットに憧れ、1927年、リンド バーグがニューヨーク・パリ間の大西洋単独無着陸飛行を成功させると、その憧れは更に強くなり、パイロットになる為、軍の士官学校への入学を希望したが、父 親の勧めで名門プリンストン大学へ入学(1928年)し、建築学を学んだ。
 (右の写真)子供の頃のジェームズ・ステュアート
James_Stewart-6

with Henry Fonda  ・1932年、大学を卒業。不況で仕事が無く、大学時代の友人ジョシュア・ローガン が所属していた学生演劇集団に参加。そこで一緒になったヘンリー・フォンダらと共に、ブロードウェイでの成功を 志し、ニューヨークへ。
 フォンダは劇団の女優マーガレット・サラヴァンと1931年に結婚したが数ヶ月しか続かず、ジェームズ・ステュアート(以下、ジミーと表す)はフォンダとの共同生活をスタートした。
 (左の写真)ヘンリー・フォンダ(左)と


 ・「Carry Nation (1932年)でブロードウェイ・デビュー。その後も舞台に立ち続け、短編映画『Art Trouble (1934年)の端役で銀幕デビューも果たした。しかし、鳴かず飛ばずの状況であり、役者を辞めることも考えていた。

 ・『運河のそよ風』(1935年)の主役で銀幕デビューを果たしたフォンダの誘いでハリウッドへ。ロスの駅でジミーを迎えたフォンダに、MGM社提供の宿泊施設へ連れて行かれたが、隣はグレタ・ガルボの部屋だったという。

 ・MGM社のスクリーン・テストに合格し、スペンサー・トレイシー主演の『舗道の殺人』(1935年)で本格的な銀幕デビューをし、ユニヴァーサル社で既に成功を収めていたマーガレット・サラヴァンの推薦により、『結婚設計図』(1936年)で彼女の相手役に抜擢された。
The Murder Man Next Time We Love
『舗道の殺人』(1935年) 『結婚設計図』(1936年)
 マーガレット・サラヴァンと

 ・クラーク・ゲーブルジーン・ハーロー主演の『妻と女秘書』 、初の主演作『超スピード時代』、ウィリアム・パウエルマーナ・ロイ主演の『影なき男』シリーズの2作目『夕陽特急』(1936年)、サイレント期の大ヒット作のリメイク『第七天国』(1937年)等に出演し、順調にキャリアを積んでいった。
Wife_vs._Secretary
Seventh Heaven-2
『妻と女秘書』(1936年)
ジーン・ハーローと

『第七天国』(1937年)
シモーヌ・シモンと


・私生活では、ノーマ・シアラーオリヴィア・デ・ハヴィランドとのロマンスも。
with_Norma_Shearer
With_Olivia_De_Havilland
ノーマ・シアラーと
オリヴィア・デ・ハヴィランドと

 ・コロンビア社に貸し出され、フランク・キャプラ監督の『我が家の楽園』(1938年)に出演。作品は大ヒットし、アカデミー賞作品賞を受賞。
 キャプラ監督は、『海の若人』(1937年)に出演しているジミーを観て、彼の起用を決めたという。
 (右の写真)『我が家の楽園』 ジーン・アーサー
You_Can't_Take_It_with_You

Made for Each Other It's_a_Wonderful_World-2
『貴方なしでは』(1939年)
キャロル・ロンバード
It's a Wonderful World 』(1939年)
クローデット・コルベール


Mr._Smith_Goes_to_Washington-2
 ・キャプラ監督との2作目『スミス都へ行く』(1939年)で渾身の演技を披露。アカデミー賞主演男優賞に初ノミネートもされ、人気スターの地位を不動のものとした。
 (左の写真)『スミス都へ行く』 ジーン・アーサーと

 ・「アメリカの良心」と称され、多くの映画ファンから愛されたジミーのキャラクターを定着させた最大の恩人と言えるのがフランク・キャプラ監督。
 後年、キャプラ監督がAFI(アメリカ映画協会)の生涯功労賞を受賞した際の式典(1982年)では、ジミーがホストを務めた。
 (右の写真)フランク・キャプラ監督(左)と
 『我が家の楽園』 撮影時。
with Frank Capra

Destry Rides Again The Shop Around the Corner
自身初の西部劇『砂塵』(1939年)
マレーネ・ディートリッヒ

『街角/桃色の店』(1940年/監督:エルンスト・ルビッチ
マーガレット・サラヴァンと

The Philadelphia Story-2  ・キャサリン・ヘップバーンケーリー・グラントと共演した『フィラデルフィア物語』(1940年/監督:ジョージ・キューカーで、アカデミー賞主演男優賞を受賞。
 (左の写真) 『フィラデルフィア物語』
 ケーリー・グラント(左)、キャサリン・ヘップバーンと

 ・アカデミー賞は、チャップリン『独裁者』ローレンス・オリビエ『レベッカ』、そして、朋友ヘンリー・フォンダ『怒りの葡萄』といった強力なライバル達を退けての受賞だった。
  (右の写真)主演女優賞を受賞したジンジャー・ロジャース
James Stewart Oscar

 ・1941年、第2次世界大戦が勃発すると、陸軍航空隊に入隊。体重が足りず、1度は体格検査で落とされたが、MGM社の体育館でトレーナーについて体重アップに取り組んでの入隊だったという。

Cooper and Stewart  ・1941年度のアカデミー賞授賞式には、軍服姿でプレゼンターとして登場。盛大な拍手で迎えられた。
 (左の写真)主演男優賞を受賞したゲーリー・クーパー(左)と

 ・戦場では、B-24爆撃機のエース・パイロットとして活躍し、終戦時には大佐にまで昇進。軍隊におけるハリウッド・スターの出世頭だった。
 戦後、軍の英雄であるジミーのもとには、戦争映画への出演オファーが殺到したが、全て断ったという。
 1968年の空軍引退時には少将にまで昇 進した。
 (右の写真)戦功により、勲章を授けられるジミー
Stewart_Army

James_Stewart-5  ・ジミーは、戦後、俳優としてのキャリアが低迷した場合には航空業界へ入ることを考えて、エージェントのリーランド・ヘイワードがサウスウエスト航空を設立する際に出資をしていたという。本当に飛行機が大好きだったんですね。
 (左の写真)飛行機のプラモデルを手に

 リーランド・ヘイワード 戦 前、タレ ント・エージェントとして活躍。ジミーの他に、フレッド・アステアグレタ・ガルボキャサリン・ヘップバーンジュディ・ガーランドジン ジャー・ロジャース、アーネスト・ヘミングウェイ、ウィリアム・ワイラー等、150人近くが彼の顧客だった。
 キャサリン・ヘップバーンと一時期交際していたことも あり、マーガレット・サラヴァンの3番目の夫でもある。
 
戦後、エージェンシーを売却してからはプロデューサーとして活躍。
 ブロードウェイ劇「南太平洋」、「ミスタア・ロバーツ」、「サウンド・オブ・ミュージック」、映画 『翼よ!あれが巴里の灯だ』、『老人と海』、『ミスタア・ロバーツ』 などを製作した。また、ジミーなどから出資を受けて、サウスウエスト航空を設立した。
 (右の写真)左から、リーランド・ヘイワード、マーガレット・サラヴァン、ジミー
Leland_Hayward

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