20世紀・シネマ・パラダ イス

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Clark Gable

クラーク・ ゲーブル

Clark Gable

1901-1960 (アメリカ)


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     代表作
 
Red Dust It_Hppened_One_Night-2
紅塵
Red Dust
(1932年/アメリカ)
或る夜の出来 事
It Happened One Night
(1934年/アメリカ)
Mutiny on the Bounty Gone with the Wind
戦艦バウンティ号の叛乱(南海征服)
Mutiny on the Bounty
(1935年/アメリカ)
風と共に去りぬ
Gone with the Wind

(1939年/アメリカ)
Mogambo The_Misfits-3
モガンボ
Mogambo
(1953年/アメリカ)
荒馬と女
The Misfits
(1961年/アメリカ)

 
    ‟ハリウッドのキング”

 ・1901年、オハイオ州生れ。本名はWilliam Clark Gable。父親は油田鉱夫。母親はゲーブルを出産してから10ヶ月後に亡くなった。
 ゲーブ ルの出生証明書には間違いで「」と記載されていた。

 ・2歳の時に父親が再婚。義母に音楽を習うなど、愛情を注がれて育てられた。
  16歳の時に高校を中退し、タイヤ工場で働き始めた。
 舞台劇を見てから演劇に興味を抱き、21歳の時に家出。義母は既に亡くなっていた。
 (右の写真)赤ん坊の頃のゲーブル
Clark Gable-4

 ・ オレゴン州ポートランドで劇団に入り、ネクタイのセールスなどをしながら役者としての生活をスタート。この地で女優のジョセフィー ン・ディロンと出会った。彼女は劇場の支配人で舞台監督のキャリアもあった才女。ゲーブルは彼 女から役者としてのスキルを徹底的に習得させられた。

Josephine Dilon  ・1924年、ジョセフィーン・ディロンの資金援助でハリウッドへ。同年、彼女と結婚。ゲーブルより17歳も年上だった。
 (左の写真)最初の妻ジョセフィーン・ディロンと

 ・『White Man(1924 年)の端役で銀幕デビュー。その後、『禁断の楽園』(1924年/監督:エルンスト・ルビッチ、『メリー・ウィドウ』(1925年/監督:エリッヒ・フォン・シュトロハイム、 『大洪水』(1926年)などに端役で出演。
 * 『大洪水』 … 後に結婚するキャロル・ロン バードゲーリー・クーパーも端役で出演(共演シーンはなし)。

 ・ハリウッドでは端役しか与えられず、舞台に復帰。
 ブロードウェイでのデビュー作「Machinal (1928年)や、ロス アンゼルスでの舞台「The Last Mile(1930年)などの演技が好評を博した。しかし、1929年の世界大恐慌の影響で舞台の仕事が激減し、再び映画界にチャレンジすることになった。
 *The Last Mile」 … ブロードウェイでの公演ではスペンサー・トレイシーが主演。1932年、1959年(ミッキー・ルーニー主演)と2度映画化された。
 
(右の写真)殺し屋を演じた舞台「The Last Mile
The Last Mile

The Painted Desert  ・1931年、RKO社のB級西部劇『惨劇の砂漠』(主演:ウィリアム・ボイド)で本格的な銀幕デビュー。この年、実に12本もの作品に出演した。
 (左の写真)ゲーブル初のトーキー作品 『惨劇の砂漠』

 ・ワーナー・ブラザーズ社で、『犯罪王リコ』(1931年/主演:エドワード・G・ロビンソンの主演選考オーディションに臨ん だ際には、プロデューサーのダリル・F・ザナックに、「耳が大きすぎ て、猿のようだ」との理由で落とされた、との伝説がある。

 ・ゲーブルと契約したMGM社においても、「主役としては耳が大きすぎる」 との評価もあったが、「夜空の星の数よりも多くのスターを抱えている」 と謳われていた同社で、人気女優たちと共演し、映画スターとしての地位を築いていった。

 グレタ・ガルボとは、 『スザン・レノックス』(1931年)で共演2人は相性が良くなかったようで、共演はこの1作のみだった。
Susan Lenox Susan_Lenox-2

『スザン・レノックス』(1931年)

 ノーマ・シアラーと は、『自由の魂』(1931年)、『Strange Interlude(1932年)、『Idiot's Delight(1939年)の3作で共演。『Strange Interlude 』で、トレード・マークとなる口髭を初めて披露した。
Strange_Interlude Idiot's_Delight
Strange Interlude(1932年)
Idiot's Delight(1939年)

 ジョーン・クロフォードと は、最多の8作で共演。
 『暗黒街に踊る』、『笑う罪人』、『蜃気楼の女』(1931年)、『ダンシング・レディ』(1933年)、『私のダイナ』、『結婚十分前』(1934年)、『空駆ける恋』(1936年)、『Strange Cargo 』(1940年)
 クロフォードとは不倫の関係になったが、MGM社のボス・ルイス・B・メイヤーに諫められて解消したと言われている。
Possessed Dancing_Lady.
『蜃気楼の女』(1931年) 『ダンシング・レディ』(1933年)

 ジーン・ハーローとは、 『秘密の6』(1931年)、『紅塵』(1932年)、 『春の火遊び』(1933年)、『支那海』(1935年)、 『妻と女秘書』(1936年)、『サラトガ』(1937年) の6作で共演。息のあった名コンビとして人気を博したMGM社のドル箱ペアだった。
Hold Your Man Saratoga
『春の火遊び』(1933年) 『サラトガ』(1937年)

 ・1930年、ジョセフィーン・ディロンと離婚。翌1931年、テキサスの社交界で、‟リア”の愛称で知られていたマリア・ランハムと再婚。彼女もゲーブルより17歳年上だった。
 (右の写真)2番目の妻マリア・ランハムと
Maria Langham

 ・人気のバロメーター、「ドル箱(マネー・メイキ ング)スター・ベストテン」の調査 では、1932年(第8位)、1933年(第7位)、1934年(第2位)、1935年(第3位)、1936年(第2位)、1937年(第2位)、 1938年(第2位)、1939年(第4位)、1940年(第3位)、1941年(第2位)、1942年(第2位)、1943年(第10位)、1947年 (第7位)、1948年(第7位)、1949年(第10位)、1955年(第10位)と16回もランクイン。特に、1930年代はハリウッドの男優でNo.1の人気を誇った。

It_Hppened_One_Night
 ・MGM社の看板スターとなったゲーブルだが、あまりの天狗ぶりに手を焼いた会社が、 お仕置きとして格下のコロンビア社に貸し出し、出演したとの伝説が残っているのが、『或る夜の出来事』(1934年/監督:フランク・キャプラ
 (左の写真)『或る夜の出来事』 クロー デット・コルベール
 ・『或る夜の出来事』は大ヒットし、ゲーブルはアカデミー賞主演男優賞を受賞。名実ともに‟ハリウッドのキング”となった。
 (右の写真)オスカー像を手にするクラーク・ゲーブル

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ゲーブルのオスカー像は1996年に競売にかけられたが、スティーブン・スピルバーグが落札し、アカデミー協会に寄贈された。
Gable-Oscar-2

 ・『野生の叫び』(1935年)で共演したロレッタ・ヤングが、撮影後にゲーブルの娘を出産。彼女は公には養子としていたが、晩年、自分の死後に公表することを条件にゲーブルの子であることを認めた。ゲーブルも自分の娘が生れていたことは知らなかったようである。ゲーブルとヤングは、『Key to the City(1950年)で再共演もした。
The Call of the Wild Key_to_the_City
『野生の叫び』(1935年) Key to the City(1950年)

Mutiny_on_the_Bounty-2  ・『戦艦バウンティ号の叛乱(南海征服)』(1935 年)で、再びアカデミー賞の主演男優賞の候補に。同作からは、チャール ズ・ロートンとフランチョット・トーンもノミネートされたが、3人とも受賞は逃した。
 同作はアカデミー賞作品賞を受賞。ゲーブルは2年連続でオスカー受賞作品の主演男優を務めた。
 (左の写真)『戦艦バウンティ号の叛乱(南海征服)』
  チャールズ・ロートン(右)と

 ・ゲーブルの36歳の誕生日パーティーで、ジュディ・ガーランドが「Dear Mr. Gable (You Made Me Love You )」を唄った。歌の出来が良かったため、ジュディは映画『踊る不夜城 ブロードウェイ・メロディ 1938(1937年)の 中でも披露することになった。
 (右の写真)ジュディ・ガーランドと
Dear_Mr._Gable-2

Rhett Butler  ・映画史に燦然と輝く不朽の名作『風と共に去りぬ』(1939年/監 督:ヴィクター・フレミングのレット・バトラー役は一世一代の ハマリ役となり、‟ハリウッドのキング”の称号を不動のものとした。
 
アカデミー賞において『風と共に去りぬ』の受賞ラッシュが続くなか、ゲーブルはノミネートに止まり受賞は逃した。
 本作は独立系の製作者デビッド・O・セルズニックの作品であり、MGM社はゲーブルを貸し出すことで配給権を得ていたが、「オスカー獲得の為に、 MGMは熱心な宣伝活動をしなかった」と、ゲーブルは悔しがったという。
 ・ゲーブルは若い頃から総入れ歯で、口臭が凄かったと言われている。
 『風と共に去りぬ』で共演したヴィヴィアン・リーからは、「歯を磨いてこない 限り、ラヴシーンはお断り」と言われてしまったというエピソードも。こんな話が伝わっているのも大スターならでは。
 (右の写真)『風と共に去りぬ』 ヴィヴィアン・リーと
Gone with the Wind-2

No_Man_of_Her_Own-2  ・1939年、キャ ロル・ロンバードと3度目の結婚。2人は『心の青空』(1932年)で共演していたが、その時は恋愛には発展せず、その後、あるパー ティーで再会して恋に落ちたという。
 (左の写真)『心の青空』キャロル・ロンバードと
 ・ゲーブルが前妻に支払う高額な慰謝料をMGM社が肩代わりすることも、『風と共に去り ぬ』への出演の条件であったという。
 ロンバードとの結婚生活が、ゲーブルにとって人生で最も幸福な期間だったと言われている。
with Carole Lombard

Gable-1942  ・1942年1月、キャロル・ロンバードが飛 行機事故で他界。最愛の妻の死に落胆したゲーブルは、映画界からの引退を表明し、陸軍航空隊に入隊。軍は実戦には参加させない方針だったが、ゲーブルは自ら 志願し、爆撃機の射撃手として何回か出撃(欧州戦線)した。
 敵対していたナチス空軍のヘルマン・ゲーリング司令官は、ゲーブルの 爆撃機を撃ち落とした者には、賞金の他、昇給と休暇を与えるとの司令を出していた。

 ・戦後、『冒険』(1945年/監督:ヴィクター・フレミング)で3年ぶりに銀幕に復帰。共演は当時のMGM社の看板女優グリア・ガースン
 (右の写真)『冒険』 グリア・ガースンと
Adventure

The_Hucksters
Homecoming
『宣伝家 自信売ります』(1947年) デボラ・カー
『帰郷』(1948年) ラナ・ターナー

with Sylvia Ashley  ・私生活では、ジョーン・クロフォードとの関係が再開したり、ポーレット・ゴダードと浮名を流したこともあったが、1949年、社交界の花形 で、初代‟ハリウッドのキング”ダグラス・フェアバンクスの未亡人シルヴィア・アシュリーと4度目の結婚。しかし、結婚生活は長くは続かず、1952年に離婚した。
 (右の写真) 4番目の妻シルヴィア・アシュリーと

To_Please_a_Lady
Never_Let_Me_Go
『スピード王』(1950年) バーバラ・スタンウィック
『哀愁のロシア』(1953年) ジーン・ティアニー

 ・復帰後も、『紅塵』のリメイク作『モガンボ』(1953年/監督:ジョン・フォード等がヒットしたが、戦前程の高い人気ではなくなっていた。
 パラマウント訴訟の影響などで、経営の曲がり角を迎えていたMGM社から、出演料の減額提示を受けたゲーブルは契約を更新せず、フリーの道を選択した。
 (右の写真)『モガンボ』
 エヴァ・ガードナー(左)、グレース・ケリー
Mogambo-2

with Kay Williams  ・1955年、ファッション・モデルのケイ・ウィリアムズと5度目の結婚。‟ハリウッドのキング”、私生活での女性遍歴の華やかさも王様だった。
 ケイ・ウィリアムズは、ゲーブルが亡くなってから4ケ月後に、彼の初めての息子を出産している。
 (左の写真)5番目の妻ケイ・ウィリアムズと

 ・1960年、心臓発作により59歳で他界。遺作となった『荒馬と女』(1961年/監督:ジョ ン・ヒューストンの撮影後だった。

 ・『荒馬と女』 のラフカット版を試写したゲーブルは、作品と自分の演技に大変満足していたという。ゲーブルは、荒馬を取り押さえる危険なシーンをスタントマンを使わずに自ら演じた。‟ハリウッドのキング”の称号に相応しい、見事なラスト・アクトだった。
 (右の写真)『荒馬と女』撮影時
 モンゴメ リー・クリフト(左)、マリリン・モンロー
The_Misfits-2

with Carole Lombard  ・ゲーブルの遺体は、最愛の妻キャロル・ロンバードの隣に埋葬された。
 (左の写真)キャロル・ロンバードと

 
・AFI(アメリカ映画協会)が1999年に選定した 「伝説のスター・ベスト50」 で、男優部門の第7位に選出。


Youtube
  『風と共に去りぬ』 クラーク・ゲーブルのトリビュート動画



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< クラーク・ゲーブル写真館 >


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