20世紀・シネマ・パラダ イス

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James Srewart-2

ジェーム ズ・ステュアート

James Stewart

   
1908-1997 (アメリカ)


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 ・戦後、フランク・キャプラ監督と の3作目『素晴らしき哉、人生!』(1946年)で銀幕復帰し、3度目のアカデミー賞主演男優賞候補に。
 ジミーの作品の中で1、2位を競う人気作で、彼自身のお気に入りの1作ともなった。
 (右の写真)『素晴らしき哉、人生!』 ドナ・リード
It's a Wonderful Life-4

On_Our_Merry_Way
Rope
朋友ヘンリー・フォンダ(左)と初共演した
『我が道は楽し』(1948年/監督:キング・ヴィダー、他)

アルフレッド・ヒッチコック監督との最初の作品
『ロープ』(1948年)


with Family
 ・1949年、41歳の時に、モデルのグロリア・マクリーンと結婚。彼女が前夫との間で授かった2人の男の子を養子縁組し、1951年に双子の娘を授かった。
 結婚後は浮いた話もなく、グロリアが亡くなるまで連れ添った。良き家庭人だったことも、「アメリカの良心」と言われた所以の一つ。
 * 長男はベトナム戦争で戦死(1969年)した。

 (左の写真)妻のグロリアと双子の娘たちと

 ・『ウィンチェスター銃’73』、『折れた矢』(1950 年)など、戦後は西部劇にも数多く出演。『ウィンチェスター銃’73』のアンソニー・マン監督とは6年間で8作品も撮り、ジミーが最も多く組んだ監督となった。
The_Stratton_Story
Winchester'73
『甦る熱球』(1949年/監督:サム・ウッド
ジューン・アリソン

ウィンチェスター銃’73』(1950年)

 ・『ハーヴェイ』(1950年)で4度目のアカデミー賞主演男優賞候補に。 ブロードウェイで1944年 から1949年までロングランを記録した大ヒット作の映画化。舞台では数名の俳優が交代で演じたが、ジミーもその1人(1947年)。彼のキャリアを語る上で欠かすことのできない作品であり、本人のお気に入りの役でもあった。
 (右の写真) 『ハーヴェイ』
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The_Greatest_Show_on_Earth
 ・アカデミー賞作品賞に輝いた『地上最大のショウ』(1952年/監督:セシル・B・デミルでは、全編ピエロのメイクで出演。ジミーの出演作品で最大のヒット作。
 (左の写真)『地上最大のショウ』 チャールトン・ヘストン

 ・1954年、『グレン・ミラー物語』(監督:アン ソニー・マン)『裏窓』(監督:アルフレッド・ヒッチコック)が大ヒットし、翌年のドル箱(マネー・メイキング)スター・ベストテンで第1位に。同ランキングには、1950年(5位)、1952年(6位)、1953年(7位)、1954年(4位)、1955年 (1位)、1956年(3位)、1957年(8位)、1958年(9位)、1959年(3位)、1965年(8位)と、合計10回ランクインした。
The Glenn Miller Story-2
Rear_Window-3
『グレン・ミラー物語』
ジューン・アリソンと

『裏窓』
グレース・ケリー


 ・ジミーのキャリアのハイライトは、前期はフランク・キャプラ監督の作品、後期はア ルフレッド・ヒッチコック監督の作品だと言える。
 ヒッチコック作品での主演4作は、ケーリー・グラントと並び最多。『裏窓』は同監督最大のヒット作品となった。
 (右の写真)『裏窓』撮影時。ヒッチコック監督と
with Hitchcock

The_Man_from_Laramie
The Man Who Knew Too Much
『ララミーから来た男』(1955年/監督:アンソニー・マン)
『知りすぎていた男』(1956年/監督:アルフレッド・ヒッチコック)
ドリス・デイ

The Spirit of St. Louis-2
 ・『翼よ!あれが巴里の灯だ』(1957年/監督:ビリー・ワイルダーで、憧れのヒーロー、チャールズ・リンドバーグ役を演じた。
 リンドバーグが大西洋単独無着陸飛行を達成した時は25歳であり、当時48歳 のジミーが演じることにワーナー・ブラザーズ社は難色を示したが、何としてもこの役が欲しかったジミーは猛アピールしたという。製作者が旧知のリーラン ド・ヘイワードであったこともジミーにとって追い風となった。原題の「Spirit of St. Louis」は飛行機の名称。
 (左の写真)『翼よ!あれが巴里の灯だ』

 ・『或る殺人』(1959年/監督:オットー・プレミンジャーで5度目のアカデミー賞主演男優賞候補に。同作でベネチア国際映画祭の主演男優賞を受 賞。
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『め まい』(1958年/監督:アルフレッド・ヒッチコック)
キム・ノヴァク

『或る殺人』(1959年)
The_Man_Who_Shot_Liberty_Valance How_the_West_Was_Won
『リバティ・バランスを 射った男』(1962年/監督:ジョン・フォード
ジョン・ウェイン
『西部開拓史(第1話 「河」)』
(1962年/監督:ヘンリー・ハサウェイ

 ・1950年代中頃からはTVでも活躍。演技だけでなく、製作や監督もこなした。また、1970年にはブロードウェイで、1975年にはロンドンで、代表作「ハーヴェイ」の再公演を行った。

 ・ジョン・ウェインからの要請で、『ラスト・シューティスト』(1976年/監督:ドン・シーゲル)に出演。デュークの最後に花を添えた。
 (右の写真)『ラスト・シューティスト』 撮影時
 ジョン・ウェイン(左)と
The Shootist

A Tale of Africa  ・オールスターキャストの『エアポート'77/バミューダからの脱出』(1977年)、『ラッシー』、ロバート・ミッチャム主演の『大いなる眠り』(1978年)等に出演。
 日本映画『アフリカ物語』(1980年/監督:羽仁進)が、最後に出演した劇場用映画となっ た。
 (左の写真)『アフリカ物語』

 ・1980年、AFI(アメリカ映画協会)の生涯功労賞を受賞。朋友ヘンリー・フォンダが授賞式のホストを務めた。

 ・1985年、アカデミー賞の名誉賞を受賞。授賞式のスピーチでは、フランク・キャプラ監 督の名前をあげて感謝した。
 同年、レーガン大統領から大統領自由勲章を贈呈された。
 (右の写真)オスカー像を手にするジェームズ・ステュアート
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Youtubelogo
 ・アカデミー賞授賞式。プレゼンターはケーリー・グラント。



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 ・TVドラマ「Rihgt of Way(1983年)ベティ・デイビスと初共演。TVには1986年まで出演した。
 (左の写真)TVドラマ「Rihgt of Way」ベティ・デイビスと

 ・スティーブン・スピルバーグ製作のアニメ映画『アメリカ物語2/ファイベル西へ行く』(1991年)で声優を務めたのが遺作となった。

 ・1994年、愛妻グロリアに先立たれてからは、ほとんど外出もせずに自宅で過ごしたという。

 ・1997年89歳で他界。

 ・AFI(アメリカ映画協会)が1999年に選定した「伝説のスター・ベスト50」で、男優部門の第3位 に選出。

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