20世紀・シネマ・パラダイス

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Buster Keaton

バスター・キートン

Buster Keaton

1895-1966 (アメリカ)


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     代表作

Sherlock, Jr. The Navigator
キートンの探偵学入門(忍術キートン)
Sherlock, Jr.
(1924年/アメリカ)
海底王キートン
The Navigator
(1924年/アメリカ)
Seven Chances The General
キートンのセブン・チャンス
Seven Chances
(1925年/アメリカ)
キートン将軍(キートンの大列車追跡)
The General
(1926年/アメリカ)
Steamboat_Bill,_Jr. The_Cameraman
キートンの船長(キートンの蒸気船)
Steamboat Bill, Jr.
(1928年/アメリカ)
キートンのカメラマン
The Cameraman
(1928年/アメリカ)


    笑わぬ喜劇役者。3大喜劇王の1人。

 サイレント期に特に人気の高かった喜劇役者で、チャールズ・チャップリンハロルド・ロイドと並び、「3大喜劇王」と称された。

 ・1895年、カンザス州生れ。本名はJoseph Frank Keaton
 両親が舞台芸人だったので、3〜4歳の頃から一緒に舞台に出演していた。
 父親が彼を観客席に放り投げるといった荒っぽい芸もあったため、両親は児童虐待の容疑で警察にお咎めを受けたこともあったという。

梯子階段の上から落っこちた時でも平気な様子だったので、‟Buster = 頑丈な男の子、大した奴 ”との芸名が付いた。
  (右の写真)子供の頃のキートンと両親
Keaton-4

Keaton_Arbuckle  ・当時人気のあった喜劇役者の「でぶ君」こと、ロスコー・アーバックルに誘われ、『ファッティとキートンのおかしな肉屋』(1917年)で銀幕デビュー。
 キートンは父親がアルコール依存症で舞台出演も覚束なくなっていた時期であり、アーバックルはマック・セネットのキーストン社を辞めたあと、自身の映画製作会社を設立し、相方を探していた時期だった。
 アーバックル主演の14作品に出演した。
 (左の写真)ロスコー・アーバックル(右)と

 ・初の主演作品は『文化生活一週間 (キートンのマイホーム)(1920年)。以後、1923年までに合計19本の短編映画に出演した。
 尚、初の長編『馬鹿息子』(1920年)は、ダグラス・フェアバンクスの推薦により出演した作品で、所謂ドタバタ喜劇ではなく、キートンのキャリアで異色の作品となっている。

 ・スタントマン顔負けの体を張ったアクション、そして、どんな場面でも決して喜怒哀楽を表情に出さなかったため、‟The Great Stone Face ”、「偉大なる石の顔(=無表情)」 と呼ばれるようになった。

アーバックルと共演した初期の作品や、『馬鹿息子』では、笑ったことがあるという伝説も。 
 (右の写真)『捨小舟』 (1923年)
The_Love_Nest

Talmadge_Sisters  ・1921年、女優のタルマッジ三姉妹の次女ナタリー・タルマッジと結婚。義理の姉となったノーマ・タルマッジの夫は、キートンの映画の製作者ジョセフ・M・シェンク。キートンは資金面のサポーターであったシェンクと親戚にもなったのだった。
 (左の写真)左から、ノーマ・タルマッジ、キートン、ナタリー夫人、コンスタンス・タルマッジ
 * ジョセフ・M・シェンク : 後に、UA社の社長、20世紀FOX社の会長等に就任した。

 ・人気スターとなったキートンが、チャップリンの撮影所を買い取ったのもこの頃。
  (右の写真)キートン (前列左)とチャップリン (キートンの隣)
Keaton-Chaplin

Our_Hospitality  ・初の長編ドタバタ喜劇『滑稽恋愛三代記(キートンの恋愛三代記)(1923年)から、『キートンの船長(キートンの蒸気船)(1928年)まで、10本の長編をキートンとシェンクで製作。この時期が全盛期となった。
 (左の写真)『荒武者キートン(キートンの激流危機一髪)』(1923年)。 唯一の共演となった妻のナタリーと

 ・キートンはシェンクとのパートナーシップを解消し、自身の撮影所も手放してMGM社と契約。
 1作目の『カメラマン』(1928年)は傑作とされているが、同社のスタジオ・システムに馴染めず、徐々に精彩を欠いていった。
 キートン自身、MGM社との契約はキャリア最大の過ちとしているが、9作目の『キートンの麦酒王』(1933年)を最後に、同社を解雇された。
 (右の写真)自身初のトーキー『キートンのエキストラ』(1930年)
Free_and_Easy

Italian_Villa  ・1932年、ナタリーと離婚。彼女はマテリアル・ガールだったらしく、通称「イタリア荘」の大豪邸 を建てたのも彼女の要望であり、キートンの稼ぎの1/3は彼女のファッション代だったという。
 2人の息子はナタリーが引き取り、約10年間、キートンは息 子たちと会うこと も拒絶されていた。
 (左の写真)「イタリア荘」の前で佇むキートン

 ・キートンはアルコール依存症となり、療養所にも入ったという。1933年、療養所の看護婦だったメイ・スクリヴンと再婚したが、3年後に離婚した。
 (右の写真)2番目の妻メイ・スクリヴンと
Mae_Scriven

Keaton and Marx  ・MGM社を解雇された後、エデュケーショナル社(34〜37年) 、コロンビア社(39〜41年)で短編映画に出演した他、フランスやイギリスの映画に出演したが、メジャーの檜舞台からは遠ざかっていた。
 経済的に破綻し、糊口を凌ぐため、MGM社で『マルクス兄弟珍サーカス』(1939年)等のギャグ・ライターをした事もあった。
 (左の写真)マルクス兄弟のグルーチョ(左)、チコ(右) と

 ・1940年、MGM社のダンサー、エレノア・ノリスと再婚。舞台で共演もした。彼女は23歳も年下だったが、公私両面でキートンを支え、キートンが亡くなるまで連れ添った。
 (右の写真)3番目の妻エレノアと
Eleanor_Norris

Limelight  ・1940年代もB級映画への出演が続いていたが、ジュディ・ガーランド主演の『グッド・オールド・サマータイム』(1949年)で、数年ぶりにメジャーの檜舞台に復帰。その後、大ヒット作『サンセット大通り』(1950年)にカメオ出演し、『ライムライト』(1952年)でチャップリンと夢の初共演も果たした。
 (左の写真)『ライムライト』 チャップリン(右)と

 ・1952年、キートンが手放した「イタリア荘」を購入したジェームズ・メーソンが、失われたとされていたキートンの旧作のフィルムを発見。
 映画コレクターのレイモンド・ロウハウアーらによってリバイバル上映 (1954年)され、キートンが再評価されるきっかけとなった。
 人気が復活し、伝記映画『バスター・キートン物語』(1957年)も製作された。キートンは自分を演じることになったドナルド・オコナーに演技指導をした。
 (右の写真)ドナルド・オコナー(右)と
Keaton-Donald_O'Connor

Keaton-Oscar  ・1959年、アカデミー賞名誉賞を受賞。
 「スクリーンに消えることのないコメディを残した独創的な才能」に対して贈られた。
 (左の写真)オスカー像を贈られるキートン(左)。
 こんな時でも ストーン・フェイス。

 ・1960年、自伝「わが素晴らしきドタバタ喜劇の世界」を出版。

 ・良き伴侶に恵まれ、再評価もされ、充実した晩年を過ごした。1966年70歳で他界。

 ・1999年AFI (アメリカ映画協会)が選定した「伝説のスター・ベスト50」で、男優部門の第21位にランクイン。

 ・2000年、AFI が「笑えるアメリカ映画ベスト100」を選定。『キートン将軍』が第14位、『キートンの探偵学入門』が第62位、『海底王キートン』が第81位にランクインした。

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