20世紀・シネマ・パラダイス

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Sessue Hayakawa

早川 雪洲

Sessue Hayakawa

1886-1973 (日本)


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     代表作
 
The Cheat River Kwai
チート
The Cheat
(1915年/アメリカ)
戦場にかける橋
The Bridge on The River Kwai
(1957年/イギリス・アメリカ)

  
    創生期のハリウッドを席巻した日本人スター

 ・1886年、千葉県生れ。本名は早川 金太郎。海軍兵学校を受験したが、素潜りで鼓膜を負傷し、身体検査で不合格となった。1907年、21歳の時に単身渡米。リトルトーキョー(ロサンゼルス)の日本人劇団で役者として活動し始めた。

 ・雪洲の主演舞台「タイフーン(台風)」(1913年)を観た映画監督・製作者のトーマス・H・インスにスカウトされ、銀幕デビューへ。当初、あまり乗り気でなかった雪洲は、断るつもりで高額なギャラを要求したが、それをインスが承諾したという。デビュー作は青木鶴子主演の『おミミさん』(1914年)。 

 ・自身初の長編『神々の怒り(火の海)』(1914年)がヒット。
 青木鶴子扮する日本人女性が、白人男性(フランク・ボーゼージが演じた)と結婚すると、神が怒って桜島が噴火するというストーリー。日本では3年ほどお蔵入りとなった。
 (右の写真)『神々の怒り(火の海)』 青木鶴子と
The Wrath of the Gods

Tsuruko Aoki  ・『神々の怒り(火の海)』公開前に青木鶴子と結婚。
 彼女は、『ツルさんの誓い』(1913年)で雪洲よりも1年先に銀幕デビューしており、ハリウッド映画で主役を務めた最初の日本人。
 (左の写真)青木鶴子

 ・1915年、ジェシー・L・ラスキー・フィーチャー・プレイ・カンパニーに移籍。『チート』(1915年/監督:セシル・B・デミルが大ヒットし、一躍人気スターに。雪洲は、白人女性の肩に焼きごてで刻印をするという悪人役。当時の日本では公開禁止となり、雪洲は「国辱俳優」と非難もされた。
 (右の写真)『チート』 
The_Cheat-2

The_Beggar_Prince
 ・淀川長治さんによると、雪洲はハリウッドの最初の美男子スター。創生期のハリウッドにおいてトップスターとなった。

 ・1918年、自ら映画製作会社を設立。ハリウッドに建てた大豪邸では、売れる前のルドルフ・ヴァレンチノが働いていたこともあった。
 (左の写真)『奮起の王国』(1920年)

 ・1922年、反日感情の高まりを受けて、一旦ハリウッドから離れて、フランス、イギリスで映画に出演。その後、5年程銀幕から遠ざかっていたが、ハリウッドに復帰し、初のトーキー作品『大和魂』(1929年/短編)に出演。『龍の娘』(1931年)の撮影後に帰国した。
 (右の写真)『龍の娘』 アンナ・メイ・ウォンと
Daughter_of_the_Dragon

Atarashikitsuchi
 ・帰国後、日本映画に出演。原 節子の出世作となった日独合作の 『新しき土』(1937年)等に出演した。
 (左の写真)『新しき土』 ルート・エヴェラーと

 ・1937年、家族を残して単身フランスへ。戦中、戦後もフランスで映画に出演しながら暮らしていた。

 ・『東京ジョー』(1949年)でハリウッドにカムバック。
 主演のハンフリー・ボガートが雪洲との共演を熱望し、関係者が当時パリにいた雪洲を捜し出しての出演だった。
 (右の写真)『東京ジョー』  ハンフリー・ボガート(後)と
Tokyo Joe-2

DeMille_Sessue
 ・『東京ジョー』の後、もう1本ハリウッド映画『三人帰る』(1949年)に出演した後、13年ぶりに帰国。その後、日本映画界で活躍した。
 (左の写真)ハリウッドでセシル・B・デミル監督とも再会

 ・『戦場にかける橋』(1957年/監督:デヴィッド・リーンに出演。
 オファーを受けた時、雪洲はあまり乗り気でなかったが、妻の鶴子の熱心な薦めで出演を決めたという。
 日本人男優として初めてアカデミー賞助演男優賞にノミネートされ、戦後の代表作となった。
 (右の写真)『戦場にかける橋』撮影時
 デヴィッド・リーン監督(左)、アレック・ギネス(中央)と
Leaan-Guinness-Sessue

Green Mansions
 ・オードリー・ヘップバーン主演の『緑の館』(1958年)、鶴子との最後の共演作となった『戦場よ永遠に』(1960年)等のハリウッド映画に出演。
 (左の写真)『緑の館』撮影時
 雪洲のために着物姿を披露したオードリー・ヘップバーンと


 ・1959年には、ブロードウェイの舞台「Kataki 」で主役を務め、アメリカの人気TV番組「ルート66」にゲスト出演(1963年)もした。
 

 ・1959年、自伝「武者修行世界を行く」を出版。日本映画『純情二重奏』(1967年)が遺作となった。

 ・1973年87歳で他界。

雪洲は、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに名を刻まれた唯一の日本人男性。 他には女優のマコ若松とゴジラのみ(2014年現在)。… 2016年に三船敏郎の名が刻まれることが決定。          

背の低い俳優が箱の上に乗るなどして、背の高さをごまかして撮影することをSessueする」と言う。もし、雪洲が本名のまま俳優活動をしていたら、Kintaroする」となっていたかも?


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