20世紀・シネマ・パラダイス

Megaphonebar
Luchino_Visconti

ルキノ・ヴィスコンティ

Luchino Visconti

1906-1976(イタリア)

Megaphonrbar


  ◆ 代表作

Senso-2
Rocco_e_i_suoi_fratelli-3
夏の嵐
Senso
(1954年/イタリア)
若者のすべて
Rocco e i suoi fratelli
(1960年/伊・仏)
Il_gattopardo
La_caduta_degli_dei
山猫
Il gattopardo
(1963年/伊・仏)
地獄に堕ちた勇者ども
La caduta degli dei
(1969年/伊・西独)
Death_in_Venice
Ludwig-3
ベニスに死す
Death in Venice
(1971年/伊・仏)
ルートヴィヒ / 神々の黄昏
Ludwig
(1972年/伊・仏・西独)
Gruppo_di_famiglia_in_un_interno-1
L'innocente
家族の肖像
Gruppo di famiglia in un interno

(1974年/伊・仏)
イノセント
L'innocente

(1976年/伊・仏)

   
     ◆
 デカダンスの美学を追及したイタリアの巨匠

 ・1906年、イタリアのミラノで名門貴族の第4子として生れ、14世紀に建てられた城で育った。若い頃から演劇に興味を持ち、舞台俳優、セット・デザイナーとして働いていたが、フランスへ渡り、ジャン・ルノワール監督に師事し、助監督として、『トニ』(1935年)、『ピクニック』(1936年)の撮影に携わった。1939年、ルノワールがローマで『Tosca』を撮影することになり帰国した。(右の写真)ジャン・ルノワール監督(左)と
Renoir_&_Visconti

 ・『Tosca』 の撮影が始まって間もなく、イタリアが第2次世界大戦に参戦。ルノワール監督がアメリカへ亡命したため、同作は共同脚本家だったカール・コッホが監督を引 き継ぎ、ヴィスコンティはそのまま助監督を務めた。ヴィスコンティは若い頃にマルキシズムに傾倒し、「赤い伯爵」と揶揄されていたが、大戦中はイタリア共 産党に入党した。

 ・1943年、初監督作品『郵便配達は二度ベルを鳴らす』 を発表。アメリカの同名小説の舞台をイタリアに置き換えた作品だが、小説の映画化権を取得していなかった為、原題は「妄執」となっている。当時のイタリアのファシスト政権を批判する描写があるとの理由で、公開後間もなく上演禁止となった。
Ossessione-2
Ossessione
『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(1943年)
クララ・カマライ、マッシモ・ジロッティ

『郵便配達は二度ベルを鳴らす』撮影時
主役の2人(左)とヴィスコンティ監督
 * 『郵便配達は二度ベルを鳴らす』 … アメリカでも、ジョン・ガーフィールド主演(1946年)、ジャック・ニコルソン主演(1981年)と2度映画化された。

 ・『郵便配達は〜』の共同脚本家、助監督を務めたジュゼッペ・デ・サンティス等と共同で、ドキュメンタリー映画『栄光の日々』(1945年)を撮った後は、舞台劇の演出家として活動していた。
 * ジュゼッペ・デ・サンティス … 『にがい米』(1949年)等を監督

La_terra_trema  ・戦後、5年ぶりの新作『揺れる大地』(1948年)を監督。シチリア島の貧しい漁民一家の艱難辛苦の日々を、同島の住民たちを俳優として起用し、全編ロケで撮影したドキュメンタリー・タッチの作品。自ら脚本を執筆し、ナレーターも務めた。ネオレアリズモの代表的な作品の1つとされている。
 (左の写真)『揺れる大地』撮影時。カメラに肘をついているのがヴィスコンティ監督

 ・コメディ作品『ベリッシマ』(1951年)を監督。娘を映画スターにしようと奔走するステージママをアンナ・マニャーニが演じた。原案は、ヴィットリオ・デ・シーカ監督との名コンビで知られた脚本家のチェーザレ・ザヴァッティーニ。撮影所で本当にあった事にヒントを得て創作された話。
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Bellissima
ベリッシマ』(1951年)
アンナ・マニャーニ(左)、ティーナ・アピチェッラ
ベリッシマ』撮影時
アンナ・マニャーニ(中央)、ティーナ・アピチェッラと

 ・上記の初期3作品は、日本ではヴィスコンティ監督の没後に公開された。ロベルト・ロッセリーニやヴィットリオ・デ・シーカと比べて、ネオレアリズモ映画の先駆者としての印象が薄いのはそのためかも知れない。

 ・全5話から成るオムニバス映画『われら女性』(1953年)の第5話を監督。前作と同じく、チェーザレ・ザヴァッティーニの原作で、アンナ・マニャーニが主役を務めた。
 (右の写真)『われら女性』撮影時。アンナ・マニャーニと
Siamo_donne

 ・『夏の嵐』(1954年)は日本で最初に公開されたヴィスコンティ監督の作品(厳密には『われら女性』の方が先)。イタリア独立戦争時代のヴェネツィアを舞台に、敵方オーストリア軍の若い将校に恋してしまった伯爵夫人の苦悩と身の破滅を描いた。ヴィスコンティ監督は、イングリッド・バーグマンマーロン・ブランドの起用を希望していた。
Senso-3
Senso
『夏の嵐』(1954年)
ファーリー・グレンジャー、アリダ・ヴァリ

『夏の嵐』撮影時
アリダ・ヴァリと

 ・ドストエフスキーの短編小説を映画化した『白夜』(1957年)を監督。名パートナーだった女流脚本家スーゾ・チェッキ・ダミーコと2人で脚色し、マルチェロ・マストロヤンニ(伊)、マリア・シェル(墺)、ジャン・マレー(仏)と3ヶ国のスターが共演。ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞(監督賞)を受賞した。
Nuits_blanches
Le_notti_bianche
『白夜』(1957年)
マリア・シェル、マルチェロ・マストロヤンニ
『白夜』撮影時
マリア・シェルと
 

Suso_Cecchi_d'Amico  スーゾ・チェッキ・ダミーコ(脚本家)
 『ベリッシマ』以後、『華やかな魔女たち』、『地獄に堕ちた勇者ども』、『ベニスに死す』の3作品を除く全てのヴィスコンティ監督作品で共同脚本家を務めた。
 (左の写真)ヴィスコンティ監督、
スーゾ・チェッキ・ダミーコ

 ・『太陽がいっぱい』(1960年)でブレイクしたアラン・ドロンを主役に起用した『若者のすべて』(1960年)を監督。原題は「ロッコとその兄弟」。イタリア南部の貧しい5人兄弟の家族が、成功を夢見て、経済の発展した北部のミラノへ移住するも、厳しい現実に直面する模様をドラマチックに描いた。
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『若者のすべて』(1960年)
アニー・ジラルド、アラン・ドロン
『若者のすべて』撮影時
アニー・ジラルド、アラン・ドロンと

 ・全4話から成るコメディのオムニバス映画『ボッカチオ'70』(1962年)の第3話「仕事中」を監督。
 (右の写真)『ボッカチオ'70』撮影時。ロミー・シュナイダーと
Boccaccio '70

 ・『山猫』(1963年)を監督。19世紀半ばのシチリア島を舞台に、時代の波に呑まれて没落していく貴族の悲哀を描いた3時間超(オリジナル版)の大作。約1時間に及ぶ舞踏会のシーンは圧巻。カンヌ国際映画祭のパルム・ドール大賞を受賞した。
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Il_gattopardo-2
『山猫』(1963年)
バート・ランカスタークラウディア・カルディナーレ
『山猫』撮影時
クラウディア・カルディナーレ、アラン・ドロン(右)と

 ・『熊座の淡き星影』(1965年)は、古代ギリシャの悲劇を現代にアレンジし、ある家族の愛憎劇をミステリー・タッチで描いた作品。ヴェネツィア国際映画祭で、『赤ひげ』(監督:黒澤明)等を抑え、金獅子賞を受賞した。
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Vaghe_stelle_dell'orsa
『熊座の淡き星影』(1965年)
クラウディア・カルディナーレ、ジャン・ソレル
『熊座の淡き星影』撮影時
クラウディア・カルディナーレと

 ・シルヴァーナ・マンガーノがヒロインを務めた全5話のオムニバス映画『華やかな魔女たち』(1966年)の第1話「疲れ切った魔女」を監督。

 ・「太陽が眩しかったから…」。作家アルベール・カミュの代表作を映画化した『異邦人』(1967年)を監督。アラン・ドロンが主役の予定だったが、『山猫』でのギャラがバート・ランカスターよりも低いことに不満でヴィスコンティと仲たがいしたため、マルチェロ・マストロヤンニが主役に起用された。
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Lo_Straniero
『異邦人』(1967年)
マルチェロ・マストロヤンニ
『異邦人』撮影時
マルチェロ・マストロヤンニ(左)、ヴィスコンティ監督(中央)

 ・『地獄に堕ちた勇者ども』(1969年)。ナチスが台頭した1930年代のドイツを舞台に、財閥一族が跡目を巡る骨肉の争いの果てに崩壊していく様を、ナチス親衛隊の暗躍ぶりを織り込みながら 描いた。ヴィスコンティ監督のデカダンスの美学が色濃く出た作品。アカデミー賞の脚本賞にノミネートされた。
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『地獄に堕ちた勇者ども』(1969年)
イングリッド・チューリン、ダーク・ボガード
『地獄に堕ちた勇者ども』撮影時
ヘルムート・バーガー(左)と

 ・トーマス・マンの小説を映画化した『ベニスに死す』(1971年)を製作・監督。静養のためヴェネツィアを訪れた老作曲家(マーラーをイメージしたキャラクター)が、ホテルで見かけた美少年に心を奪われる…。理性をも超越した圧倒的な‟美” は、人をたじろがせ、破滅へと導く残酷さが潜んでいること(=美の魔性)を格調高い映像美で示した。
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Death_in_Venice-2
『ベニスに死す』(1971年)
ビョルン・アンドレセン、ダーク・ボガード
『ベニスに死す』撮影時
ダーク・ボガート(右)と

 ・19世紀のドイツ・バイエルンの‟狂王”ルートヴィヒ2世の半生を描いた『ルートヴィヒ / 神々の黄昏』(1972年)。完全版は約4時間の大作だが、監督の意に反して約140分の短縮版が公開された。日本では1980年に監督自身が編集した約3時間の短縮版が『ルードウィヒ / 神々の黄昏』の邦題で初公開され、2006年に完全版が公開された際、『ルートヴィヒ / 神々の黄昏』に改題された。
Ludwig
Ludwig-2
『ルートヴィヒ / 神々の黄昏』(1972年)
ロミー・シュナイダー、ヘルムート・バーガー
『ルートヴィヒ / 神々の黄昏』撮影時
ロミー・シュナイダー、ヘルムート・バーガー(右)と

 ・旧世代の孤立と崩壊を描いた『家族の肖像』(1974年)を監督。前作の編集中に病に倒れたヴィスコンティ監督は車椅子で撮影に臨んだ。日本ではヴィスコンティ監督の没後の1978年に公開され大ヒット。同監督の人気が高まったおかげで、未公開だった作品が陽の目を見ることになった。
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Gruppo_di_famiglia_in_un_interno-3
『家族の肖像』(1974年)
ヘルムート・バーガー、バート・ランカスター
『家族の肖像』撮影時
ヴィスコンティ監督(手前左)、バート・ランカスター(中央)

 ・貴族の男女の愛憎劇を官能的に描いた『イノセント』(1976年)が遺作となった。‟イノセント”=‟無垢なるもの”とは、貴族への愛情とも皮肉ともとれるタイトル。自身の出自である貴族階級に愛憎相半ばする感情を抱いていたというヴィスコンティ監督が、滅びゆく貴族階級に鎮魂の思いを込めて撮ったとも言える作品。
L'innocente
L'innocente-2
『イノセント』(1976年)
ラウラ・アントネッリ、
ジャンカルロ・ジャンニーニ
『イノセント』撮影時
ジャンカルロ・ジャンニーニ(左)、ラウラ・アントネッリと

 ・監督デビューは37歳と遅かったが、スランプに陥って凡作を撮ることがなかった。幅広い芸術分野に造詣が深く、映画への情熱を持ち続けた証しに他ならない。

 ・1976年69歳で他界。


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