20世紀・シネマ・パラダイス
映画界 事件&スキャンダルの歴史
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1925年
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ハリウッドの女王の堕胎スキャンダル (アメリカ) |
新作『ありし日のナポレオン』の撮影でフランスへ渡ったグロリア・スワンソンが、通訳を務めたド・ラ・ファレーズ侯爵に求婚され3度目の結婚をした。ところが、結婚式の翌日に、病院でお腹の子(誰の子だっ
たんだろう?)を堕ろしていたことが発覚。一大スキャンダルとなった。 |
しかし、フランス人貴族と結婚し、侯爵夫人となって帰国したスワンソンは、アメリカの大衆から熱
狂的な歓迎を受けたという。
(右の写真)グロリア・スワンソンとド・ラ・ファレーズ侯爵
後年、スワンソンは大物政治家のジョセフ・P・ケネディと不倫の関係にもなった。さすがはハリウッドの初代女王?
* ジョセフ・P・ケネディ … 第35代大統領ジョン・F・ケネディの父親 |
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フランスの喜劇役者マックス・ランデー(1883-1925)。
1905年に銀幕デビュー。母国フランスで活躍したのち、ハリウッドでも活躍。最初の国際スターと言われており、チャップリンが登場するまでは人気No.1のコメディアン、元祖喜劇王だった。
(左の写真)マックス・ランデー
第1次世界大戦中に召集され、従軍。戦後、銀幕復帰したが、チャップリンなど若手の台頭で人気が凋落し、失意のなかフランスへ帰国した。 |
41歳の時に、妻を道連れに睡眠薬を大量摂取して自殺。従軍中に躁鬱病を患っていたとも言われている。
チャップリンの山高帽にステッキのスタイルは、ランデーのスタイルを浮浪者風にアレンジしたものとも言われている。
ランデーの訃報を聞いたチャップリンは、その日は撮影所を閉め、喪に服したという。
(右の写真)チャップリン(左)とマックス・ランデー |
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1926年
| 美男子ヴァレンチノ 白昼のファイト (アメリカ) |
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多くの女性ファンを獲得し、ハリウッドを代表する二枚目スターとなったルドルフ・ヴァレンチノだが、一部の男性からは反感を得ていたようである。
この年の7月、シカゴ・トリビューン紙が、ヴァレンチノが社会に悪影響を及ぼしていると報じた。曰く、高級ホテルの男性用トイレに化粧品の自動販売機が設置されたのは彼が原因だと。この記事に激怒したヴァレンチノは、同紙の記者にボクシングの試合を申し込んだ。
(左の写真)ボクシングの元世界ヘビー級チャンピオン、ジャック・デンプシーから手ほどきを受けるヴァレンチノ
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シカゴ・トリビューン紙の記者はヴァレンチノの挑戦を黙殺したが、ニューヨーク・イブニング・ジャーナル紙のボクシング記者が代わりに戦うことを志願した。
ニューヨークのアンバサダーホテルの屋上で行われた試合は、ヴァレンチノがパンチ一発で相手をダウンさせて勝利した。
宣伝のための出来試合だったような気もするが、ヴァレンチノはこのファイトから数週間後に31歳の若さで急逝した。
(右の写真)ボクシングの試合に臨むヴァレンチノ(左)
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1930年
| マネージャーに私生活を暴露された人気女優 (アメリカ) |
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1920年代に‟ハリウッドのセックス・シンボル”と謳われ、一世を風靡した‟イット・ガール”ことクララ・ボウ。
クララのマネージャーが彼女のお金を横領して逮捕された。
このマネージャー、余程お金に窮していたのか、クララの私生活なるものをタブロイド紙に売りつけてもいた。その記事によると、クララは大変な男好きで、その男性遍歴は相当なものだったという。 |
もともと、大酒飲みのギャンブル狂としてゴシップが取り沙汰されていたクララ・ボウ。赤裸々な私生活が暴露されたことは決定的なイメージ・ダウンとなり、3年後、まだ28歳という若さで引退へと追い込まれてしまった。
(右の写真)『女給と強盗』(1931年)
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