20世紀・シネマ・パラダイス

Megaphonebar
Jacques_Tati

ジャック・タチ

Jacques Tati

1907-1982 (フランス)

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  ◆ 代表作

Jour_de_fete
 のんき大将 脱線の巻
 Jour de Fete
 (1947年/フランス)
Les_vacances_de_Monsieur_Hulot
 ぼくの伯父さんの休暇
 Les vacances de
  Monsieur Hulot

 (1953年/フランス)
Mon_Oncle  ぼくの伯父さん
  Mon Oncle
 (1958年/フランス)
Playtime
 プレイタイム
 Playtime
 
(1967年/フランス)

   
     ◆
 フランスの喜劇王

 ・1907年、フランスのル・ペック生れ。本名は Jacques Tatischeff 。父親はロシア人で、母親はオランダ人だった。
 祖父はロシアの貴族で、パリのロシア大使館に勤務している時に現地の女性との間で彼の父親を授かった。

 ・学生時代からテニスや乗馬などスポーツに熱を入れ、社会人になってからはセミプロのラグビー・チームに入っていた。その当時からスポーツ選手のモノマネやパントマイム芸で仲間を笑わせていたという。

 ・両親が経営していた絵画の額縁店を継ぐつもりでいたが、世界大恐慌の煽りを受け、その道を断念。1931年頃からミュージック・ホールの芸人となった。

 ・初出演の短編映画 『テニスのチャンピオン、オスカール』 (1932年) は未完でお蔵入りとなったが、ルネ・クレマン監督の 『左側に気をつけろ』 (1936年) 等、3本の短編映画に出演。初めて監督業に挑んだ 『Retour a terre (1938年) は未完となった。
On_demande_une_brute
Gai_dimanche!
Soigne_ton_gauche
『乱暴者を求む』 (1934年)
『陽気な日曜日』 (1935年)
『左側に気をつけろ』 (1936年)

 ・1935年、当時の世界最大の客船ノルマンディー号がブルーリボン賞 (大西洋を最速で横断した船舶に与えられる賞) を獲得した祝賀パーティーの舞台に出演。作家のコレット女史が賞賛する記事を書き、タチの知名度が上がったという。 芸人として順調にキャリアを積み重ねていたが、第2次世界大戦が勃発。タチは得意の乗馬を生かし、フランス軍の竜騎兵連隊員として兵役に就いた。
 * コレット女史 … 代表作は 「ジジ」。ブロードウェイ劇 (1951年) ではオードリー・ヘップバーンが主演し、レスリー・キャロン主演 『恋の手ほどき』 (1958年) として映画化もされた。

 ・戦後、クロード・オータン=ララ監督の 『乙女の星』 (1945年)『肉体の悪魔』 (1947年) に端役で出演。

 ・友人と映画製作会社 Cady-Films 社を設立し、監督・脚本・主演の短編映画 『郵便配達の学校』 (1947年) を発表。当初はルネ・クレマンが監督する予定だった。以下、特段の記載がない限り、全ての作品でタチは監督・脚本・主演を兼ねている。
 (右の写真) 『郵便配達の学校』。右から2番目がタチ
L'ecole_des_facteurs

Jour_de_fete-2
 ・初の長編 『のんき大将 脱線の巻』 (1949年) を発表。タチが前作と同じく郵便配達夫のフランソワに扮した作品。
 ヴェネツィア国際映画祭の脚本賞、フランス・シネマ大賞を受賞。出世作となった。カラーでも撮影されており、1995年にカラー版が公開された。
 (左の写真) 『のんき大将 脱線の巻』

 ・タチが彼の代名詞となった ‟ユロ伯父さん” に扮した最初の作品 『ぼくの伯父さんの休暇』 (1953年) を発表。
 カンヌ国際映画祭の国際批評家賞、ルイ・デリュック賞、フランス・シネマ大賞の男優賞を受賞。アカデミー賞 (1955年度) のオリジナル脚本賞にノミネートもされた。日本では次作の後に公開された。
 (右の写真) 『ぼくの伯父さんの休暇』
Les_vacances_de_Monsieur_Hulot-2

 ・1955年に交通事故で左腕を負傷。また Cady-Films 社の共同設立者との内輪もめがあり、タチは自身の製作会社 Specta-Films社を設立。そんなこんなで新作の製作が遅れた。

Mon_Oncle
 ・5年ぶりの作品 『ぼくの伯父さん』 (1958年) を発表。
 前作同様 ‟ユロ伯父さん” に扮しているが、物語的には関連がない。
 カンヌ国際映画祭の審査員特別賞、アカデミー賞の外国語映画賞を受賞。
 (左の写真) 『ぼくの伯父さん』 アラン・ベクールと


youtube
 アカデミー賞授賞式。プレゼンターはロバート・スタックとシド・チャリシー


 「マック・セネットからチャップリンまで、全員の名前を覚えています。… 私は伯父さんではなく、
偉大なコメディアンたちの甥っ子です …」。
 『ぼくの伯父さんの休暇』 の成功以後、ハリウッドからの度重なるオファーを全て断っていたという。
 アメリカ滞在中はハリウッド喜劇のレジェンドたちと面談もした (チャップリンはアメリカから追放されていた)
 (右の写真) 左から、バスタ・キートン、タチ、ハロルド・ロイド
Jacques_Tati-2


Playtime-2
 ・実に9年ぶりとなる新作 『プレイタイム』 (1967年) を発表。フランス映画史上最大の製作費 (当時) を投入した大作。
 オリジナル版は約2時間半だったが、プレミア上映で不評だったため、30分あまりカットした短縮版が一般公開された。
 批評的は賛否両論だったが、興行的には失敗作となった。
 (左の写真) 『プレイタイム』

 ・『ぼくの伯父さんの授業』 (1967年)。
 『プレイタイム』の製作中に撮られた短編映画。『プレイタイム』の助監督だったニコラ・リボウスキが監督した作品。
 (右の写真) 『ぼくの伯父さんの授業』
Cours_du_soir

Trafic
 ・4年ぶり、5作目の長編 『トラフィック』 (1971年) を発表。
 共同脚本家でもあるオランダ人の映画監督ベルト・ハーンストラとの企画から生まれた作品で、フランスとオランダが舞台となっている。
 純然たる劇場用映画としてはタチの最後の作品。 
 (左の写真) 『トラフィック』

 ・スウェーデンのTV映画 『パラード』 (1974年) が遺作となった。
 サーカスの団長に扮したタチがパントマイム芸を披露している作品で、日本では劇場公開された。
 (右の写真) 『パラード』
Parade

 ・1977年、セザール賞の名誉賞を受賞。
 完璧主義者のため寡作だったが、その独特の笑いのセンスは今でも多くのファンから愛されている。

 ・1982年75歳で他界。

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