20世紀・シネマ・パラダイス
映画界 事件&スキャンダルの歴史
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1938年
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アカデミー賞授賞式に出没した謎の代理人 (アメリカ) |
第10回(1937年度)アカデミー賞の助演女優賞は、『シカゴ』で主役のタイロン・パワーの母親役を演じたアリス・ブラディが受賞した。
彼女は足を怪我しており授賞式を欠席。そのため、オスカー盾 (当時の助演賞は像ではなく盾だった)は彼女の代理人に手渡された。
ところが、この代理人は全くのニセ者。祝金泥棒ならぬオスカー泥棒だった。
その後、この謎の代理人とオスカー盾は行方不明のままである。
(右の写真)アリス・ブラディ
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多くの一流映画人が集う授賞式で代理人になりすましたこのニセ者。その演技は、まさにオスカーものだった?
(左の写真) 当時のオスカー盾 |
アリス・ブラディには、後日、アカデミー協会が新たに用意したオスカー盾が贈呈された。
彼女の実家は、父親が有名な演劇プロデューサーという演劇一家。ハンフリー・ボガートは、ブラディ家の隣人だったことが縁で役者となっている。
(右の写真)オスカー楯を手渡されるアリス・ブラディ |
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1940年
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「ロサンゼルス・タイムズ紙」のフライング (アメリカ) |
第12回(1939年度)アカデミー賞授賞式。当時は、受賞結果を翌日の朝刊に載せるため、「授賞式が終わるまで公表をしない」との協定を結んで、マスコミ各社だけには事前に選考結果が知らされていた。 |
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ところが、「ロサンゼルス・タイムズ紙」が当日の夕刊で、『風と共に去りぬ』が作品賞を受賞したことを報道。授賞式会場で発表される前に結果が明らかになってしまった。
翌年から、選考結果は密封され、プレンゼンターが開封するまでは一切外部に伝えない、という現在もお馴染みの方法に変更された。
尚、選考結果の入った封筒は、授賞式当日まで、アカデミー協会と契約をしている会計事務所が保管している。
(左の写真)主演女優賞を受賞したヴィヴィアン・リー |
1942年
| キャロル・ロンバード飛行機事故死 (アメリカ) |
”スクリューボール・コメディの女王”キャロル・ロンバードが飛行機事故で亡くなった。詳細はこちら
(右の写真)亡くなる前のキャロル・ロンバード
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1942年
| 剣劇アクション・スターが法定強姦で起訴される (アメリカ) |
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エロール・フリン(1909-1959)。『海賊ブラッド』(1935年)、『ロビンフッドの冒険』(1938年)などの大ヒット作で、剣劇アクション・ヒーローとして一時代を築いた人気スター。
『風と共に去りぬ』(1939年)の映画化の際、ワーナー・ブラザーズ社がレット・バトラー役として推薦するなど、同社の看板スターだったが、私生活では度々問題を起こしていた問題児だった。
(左の写真)エロール・フリン
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エロール・フリンが法定強姦で起訴された。告発者は2人の少女で、フリンご自慢のヨットの中でレイプされたと訴えていた。
裁判では、ワーナー・ブラザース社がドル箱スターのために強力な弁護団を組織し、無罪を勝ち取った。
当時、ハリウッドでは、「In Like Flynn」 = 「フリンのように上手くやる」というスラングも生まれたという。
(右の写真)法廷でのエロール・フリン(左)
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ちなみに、このヨットは、オーソン・ウェルズ監督の『上海から来た女』(1947年)の撮影で使用され、フリンも船員役で特別出演している。 |
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多くの女優と浮名を流し、大の酒好きでもあった。
『自由の大地』(1958年)の撮影時には、酒に酔って問題を起こし、ジョン・ヒューストン監督にノック・アウトされた、とのエピソードも。
晩年はアルコール依存症となり、1959年、50歳の時に心臓発作で亡くなった。酒を飲んでのドンチャン騒ぎの後だったという。
(左の写真)エロール・フリン |
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