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映画界 事件&スキャンダルの歴史

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1910年
 人気女優事故死の誤報 (アメリカ)
 人気女優のフローレンス・ロレンスが、「電車事故で死亡 」 と地元新聞で報じられた。
 ところが、当の本人はピンピンしており、誤報であったことが判明した。

 死亡記事が出た当時、彼女はバイオグラフ社からIMP社へ移籍したばかり。バイオグラフ社による嫌がらせ説、IMP社による宣伝工作説、等が噂された。
 ともあれ、この騒動により彼女の名は全米中に知れ渡り、多くの観客が彼女を観るために映画館に足を運んだという。かくして、最初の映画スターが誕生した。
  (右の写真) 最初の映画スター、フローレンス・ロレンス

Florence Lawrence
 しかし、彼女の人気は長くは続かなかった。後輩のメアリー・ピックフォードなどに人気を奪われ、1920〜30年代は端役ばかり。1938年、52歳の時に服毒自殺をした。

Carl Laemmle  誤報記事による騒動はIMP社による宣伝工作だった。
 IMP社の社長は、後にユニヴァーサル社を設立したカール・レムリ
 かなり乱暴な手法ではあったが、映画館に客を呼ぶためには、宣伝やスターの存在が重要であることにいち早く気づいた人物であった。
  (左の写真) カール・レムリ

 
アメリカの映画産業興隆の一因は、他国に先がけてスター・システムを確立したことであるが、最初の映画スターが反則技のような宣伝工作によって
誕生し、哀れな最後を遂げていたとは…。何ともはやである。

1917年
 新聞王ハーストと愛人女優 (アメリカ)
 映画ファンには、『市民ケーン』 (1941年) のモデルとしても知られている新聞王のウィリアム・ランドルフ・ハースト (1863-1951)
 彼が55歳に手が届くという頃、まだ駆け出しのショーガールと出会った。
 彼女の名はマリオン・デイヴィス (1897-1961)
 マリオンをお気に召したハーストは妻と別居。かの有名な 「ハースト城」 にマリオンを迎え入れた。そして、映画女優になるのが夢であった彼女のために映画会社を設立。大手と提携し、マリオン主演の映画を製作。自身の新聞・雑誌で大々的に宣伝し、世間からはブーイングを浴びた。
  (右の写真) ウィリアム・ランドルフ・ハースト
William Randolph Hearst

Hearst Castle Hearst Castle (左の写真)
「ハースト城」。
マリオンはここの女主人となった。

 ハーストはマリオンをトップ女優にするため、名だたる監督を招き、映画を作 り続けた。
 マリオンはハーストのことを 「パパ」 と呼んでいたそうだが、「ねえパパ、今度はゲーブルと共演したい 」 とおねだりでもしたのでしょうか?
 クラーク・ゲーブルゲーリー・クーパーといったスーパー・スターとも共演をした。
  (右の写真) マリオン・デイヴィス
Marion Davies
 ハーストのなりふり構わぬ宣伝に、初めは批判的であった世間も、やがて失笑へと変わっていった。
Polly of the Circus  何故なら、マリオン主演の映画はどれも不評で赤字が続いたからだった。
 ハーストの事業が傾きかけ、マリオンが引退する1937年までに、実に46本もの主演映画が作られたが、1本も当たらなかった。
  (左の写真) ゲーブルと共演した 『地獄のサーカス』 (1932年)
 さすがの新聞王も、愛人の女優としての才能まではどうしようもなかったようだ。
 けれど、当のハースト本人は、スクリーンの中のマリオンの姿に至極ご満悦であったとか。
  (右の写真) クーパーと共演した 『「砲煙と薔薇』 (1934年)
Operator13
 2人は34歳も年が違うので、ハーストはマリオンの男遊 びを見て見ぬふりをしていたという。マリオンはまだ20代の若さ。強大なパトロンの庇護の下で、夜な夜な 「ハースト城」 でパーティーを催したり、社交界へ 繰り出したりしていた。そんな火遊びが災いしたのか、1924年に、あるスキャンダルが発生した…。

1920年
 ハリウッドの人気女優がパリのホテルで変死 (アメリカ)
 ハリウッドの人気女優がパリのホテルで変死した。その死因について様々な憶測が報道され、ハリウッドを揺るがす最初のスキャンダルとなった。

 オリーヴ・トーマス (1894-1920)。20歳の時にニューヨークの美人コンテストで優勝。その後、ショーガール、モデルを経て、1916年に銀幕デビュー。
 1920年代、流行の最先端をゆく自由奔放なファッション、ライフスタイルの女性たちは ‟フラッパー” と呼ばれ、クララ・ボウルイーズ・ブルックスジョーン・クロフォードなどが、‟フラッパー” を体現する女優として人気を博したが、アメリカでこの呼称が普及したのは、オリーヴ・トーマスの主演映画 『The Flapper (1920年)によるところが大きいと言われている。
 彼女は ‟フラッパー” 女優の先駆けとして、男性のみならず、女性からも支持された人気女優であった。 (右の写真) オリーヴ・トーマス
Olive Thomas
 1916年、「アメリカの恋人」 メアリー・ピックフォードの弟ジャック・ピックフォードと駆け落ちして結婚。
Jack_Pickford  1920年、休暇でジャックと共にフランスへ。ホテルのバスルームで毒液を飲み、5日後に25歳の若さで亡くなった。
   (左の写真) ジャック・ピックフォードと

 
人気女優の突然の死は世間を揺るがせた。ドラッグ中毒を苦にしての自殺だとする説、ジャックの梅毒治療液を誤飲したとする説、ジャックに殺されたとする説、等々が報道された。
 警察の捜査の結果、トイレの洗浄液 (塩化水銀をアルコールで溶解したもの) を誤って飲んだ事故死と断定された。
 彼女が毒を飲んだのは夜中の3時頃。アルコールもしくはドラッグによる酩酊状態であった上に、ボトルのラベルが仏語であったため誤飲したとされた。
 オリーヴがジャンキーであったという説は根強い。というのも、ジャックはその後2度再婚したが、アルコールとドラッグで健康を害し、36歳で亡くなっているか らでもある。
 オリーヴはスクリーンの中だけでなく、プライベートにおいても自由奔放な ‟フラッパー” スタイルの生活を送っていたようだ。

 オリーヴ・トーマスがショーガール時代に出演していたニューヨークのニュー・アムステルダム劇場には、彼女の亡霊が出没するとの都市伝説がある。
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