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映画界 事件&スキャンダルの歴史

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1921年
人気コメディアンの「でぶ君」、強姦殺人容疑で逮捕 (アメリカ)

 人気コメディアンの「でぶ君」こと ロスコー・‟ファッティ”・アーバックル(1887-1933)が、強姦殺人容疑で逮捕された。

 ホテルの続き部屋を借り切ってパーティーをしていた時、女優のヴァージニア・ラッペが悲鳴とともに倒れ、3日後に亡くなった。死因は膀胱破裂だった。

 彼女が倒れた時に一緒にいたのがロスコー・アーバックル。強姦殺人容疑で逮捕・起訴された。

 このニュースは全米中を震撼させる一大スキャンダルとなった。何しろ、事件の記事が載った新聞は飛ぶように売れたという。マスコミは、あることないことを面白おかしく、そして卑猥に書きたてた。
Roscoe Arbuckle

Virginia_Rappe  ヴァージニア・ラッペの恋人で、アーバックルの主演作やチャップリンのデビュー作等を撮った映画監督ヘンリー・レアマンをはじめ、アーバックルがラッペを強姦・殺害したことを信じて疑わない、と証言する者もいた。
 (左の写真)ヴァージニア・ラッペ

 裁判の結果、証拠不十分によりアーバックルは晴れて無罪放免となった。しかし、スキャンダルにまみれたアーバックルには、映画界での居場所がなくなっていた。

 アーバックルは、チャップリンとほぼ同時期に、同じキーストン社から銀幕デビューして、共演もしている。
 当時はチャップリンと肩を並べるほどの人気者だったという。
 (右の写真)『両夫婦』(1914年) チャップリン(右)と
Arbuckle-Chaplin

Arbuckle-Keaton  また、バスター・キートンを映画界入りさせたのはアーバックルで、キートンにとっては師匠であり、恩人でもあった。
 キートンは事件当初からアーバックルの無罪を信じて疑わず、事件後も、彼が亡くなるまで、映画界に復帰できるように尽力していたという。
 (左の写真)『デブ君の給仕』(1918年) キートン(右)と

 事件から3年後、アーバックルは、名義を「William Goodrich」として、マイナー会社のB級映画の監督として復帰。この名義は「Will be Good  = きっと良くなる」をもじったもので、キートンが命名したという。

 1933年、アーバックルは46歳で亡くなった。事件後、メジャーの檜舞台で再び脚光を浴びることはなかった。

 アーバックルは日本でも「でぶ君」の愛称で人気者だったという。何しろ、「でぶ」という言葉を普及・定着させたのはアーバックルなんだそうです。
 (右の写真) ジャッキー・クーガン

Arbuckle Coogan


1922年
迷宮入りとなった映画監督殺人事件 (アメリカ)

 映画監督のウィリアム・デズモンド・テイラー (1872-1922)が、自宅で何者かに射殺された。自宅の使用人など、10数名もの人物が容疑者・参考人として取り調べを受けたが、真犯人が分からず、事件は迷宮入りとなった。
 (右の写真)ウィリアム・デズモンド・テイラー

 この事件は、2人の女優の人生に大きな影を落とした。
William Desmond Taylor

Mary Miles Minter  1人は メアリー・マイルズ・ミンター (1902-1984)
 
 1915年、13歳で銀幕デビュー。テイラー監督のヒット作『赤毛のアン』(1919年)等に出演。将来を嘱望された若手の人気女優だったが、事件後、彼女が30歳も年上のテイラー監督に宛てて書いたラブレターが発見され、スキャンダルとなった。
 (左の写真)メアリー・マイルズ・ミンター
 更に、彼女の母親シャーロット・シェルビーの醜聞が拍車をかけた。元舞台女優のシャーロッ トは、娘を金の成る木としかみなさない猛烈なステージママだったようである。しかも、テイラー監督を射殺したものと酷似した拳銃を所持していたという。金 の成る木を横取りされてはたまらない、という動機も考えられたことから、1番の容疑者と噂されもした。
 (右の写真)シャーロット・シェルビー

 メアリーは事件の翌年に女優業を引退。2年後には、映画の出演料を巡って母親のシャーロットを訴えている。
Charlotte_Shelby

Mabel Normand-2  もう一人は メーベル・ノーマンド (1892-1930)

 1910年に銀幕デビュー。ドタバタ喜劇の立役者マック・セネットの恋人で、セネット率いるキーストン社で人気No.1のコメディエンヌとなった。
 キーストン社では、後輩となるチャップリンやロスコー・アーバックルとも共演。日本でも「ハネ子」の呼び名で人気を博していた。
 (左の写真) メーベル・ノーマンド
 マック・セネットと別れた頃からアルコールやドラッグに浸るようになり、テイラー監督は彼 女を薬物依存症から立ち直らせようと尽力していたらしい。
 テイラー監督が殺害される前、最後に会っていたのが彼女だったことから、重要参考人として取り調 べを受け、その際に、ドラッグ中毒であることがマスコミによって暴露されてしまった。
 (右の写真)『他人の外套』(1914年) チャップリンと
Normand_Chaplin

 メーベル・ノーマンドは、2年後にも別の事件に巻き込まれることとなる…。(後述)

 !名作『サンセット大通り』(1950年/監督:ビリー・ワイルダーグロリア・スワンソン扮する主人公の名前ノーマ・デズモンドは、メーベル・ノーマンドとウィリアム・デズモンド・テイラー監督の名前が由来となっている。 


1922年
伝説の美男スター、ルドルフ・ヴァレンチノが重婚罪で拘留 (アメリカ)

Rudolph_Valentino
 女性ファンから絶大な人気を得ていたルドルフ・ヴァレンチノが、重婚罪で拘留・起訴された。
 詳細はこちら
 (左の写真)法廷でのヴァレンチノ (右から2番目)


1922年
ハリウッド映画自主規制へ (アメリカ)

 ロスコー・アーバックルの事件などで、ハリウッドに向けられる世間の目は厳しさを増していった。すなわち、ハリウッドは「映画の都」ならぬ、奇人、変人、そして、犯罪者が集う「悪人の都」である、と。

 危機感を抱いたハリウッドは、業界団体MPPDA (アメリカ映画製作配給業者協会)を発足させた。初代会長に前郵政長官のウィル・H・ヘイズが就任し、「ヘイズ・オフィス」とも呼ばれた。
 (右の写真)ウィル・H・ヘイズ

 MPPDA は、風紀上好ましくない映像等を自主規制・検閲し、1930年に映画製作倫理規定、通称‟ヘイズ・コード”を制定した。
 * MPPDA … 現在のMPAA
Will_H._Hays

Notorious  キス・シーンは3秒以内という規制もあったが、ヒッチコック監督が 『汚名』(1946年)の中で、主演の男女に3秒以内のキスを繰り返させ、2分半に及ぶキス・シーンを展開させて見せるなど、思わぬ名シーンも生み出すことにもなった。
 (左の写真)『汚名』
 ケーリー・グラントイングリッド・バーグマン


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