20世紀・シネマ・パラダ イス
ポール・ニューマン
Paul Newman
1925-2008(アメリカ)
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・監督2作目『わが緑の大地』
(1971年)
では、敬愛していた
ヘンリー・フォンダ
と共演。当初の監督リチャード・A・コーラが撮影途中で解任され、ポール・ニューマンが監督を兼ねることになった。監督3作目『まだらキンセンカにあらわれるガンマ線の影響』
(1972年)
では、愛妻ジョアン・ウッドワードにカンヌ国際映画祭の女優賞をもたらした。
(右の写真)『わが緑の大地』 ヘンリー・フォンダと
『ロイ・ビーン』(1972年/監督:
ジョン・ヒューストン
)
『マッキントッシュの男』
(1973年/監督:ジョン・ヒューストン)
ドミニク・サンダと
・『明日に向かって撃て!』
(1969年)
のジョージ・ロイ・ヒル監督、ロバート・レッドフォードと再びタッグを組んだ『スティング』
(1973年)
は、前作を上回る大ヒット。インフレ調整後の興行成績では歴代第21位
(2019年現在)
。
ポール・ニューマンとロバート・レッドフォード。最高にクールな2人は、興行面でも最強のコンビだった。
(左の写真)『スティング』 ロバート・レッドフォード (右)と
・オールスター・キャストの大作パニック映画『タワーリング・インフェルノ』
(1974年)
も大ヒット。日本では興行成績の新記録
(当時)
を樹立した。
前妻との間で授かった長男のスコット・ニューマンが消防士の役で銀幕デビューし、親子での共演を実現させた。
(右の写真)『タワーリング・インフェルノ』
スティーブ・マックイーン
(右)と
『ビッグ・アメリカン』(1976年/監督:ロバート・アルトマン)
『スラップ・ショット』(1977年/監督:ジョージ・ロイ・ヒル)
・1978年、長男のスコット・ニューマンがドラッグとアルコールの過剰摂取により他界。ドラッグの弊害を描いた映画やTVに奨励金を支出する「スコット・ニューマン基金」を設立した。
・『スクープ 悪意の不在』
(1981年/監督:シドニー・ポラック)
で14年ぶり5度目、『評決』
(1982年/監督:
シドニー・ルメット
)
で6度目のアカデミー賞主演男優賞候補に。
『スクープ 悪意の不在』(1981年)
『評決』(1982年)
・1984年、ゴールデン・グローブ賞のセシル・B・デミル賞を受賞。
・1985年、アカデミー賞名誉賞を受賞。プレゼンターは、『スクープ 悪意の不在』で共演したサリー・フィールド。ポール・ニューマンは次作の『ハスラー2』の撮影現場(シカゴ)からの中継で受賞の喜びを語った。
・『ハスラー2』
(1986年/監督:マーティン・スコセッシ)
で7度目のアカデミー賞主演男優賞候補となり、遂に受賞した。
授賞式は欠席で、出世作『傷だらけの栄光』
(1956年)
を撮ったロバート・ワイズ監督が代理人としてオスカー像を受け取った。
(左の写真)『ハスラー2』 トム・クルーズ(左)と
・1994年、アカデミー賞のジーン・ハーショルト友愛賞を受賞。様々な慈善事業
(後述)
に尽力していた功績が認められた。
アカデミー賞授賞式。プレゼンターはトム・クルーズ。
・『ノーバディーズ・フール』
(1994年/監督:ロバート・ベントン)
でベルリン国際映画祭の銀熊賞(男優賞)を受賞。アカデミー賞の主演男優賞にもノミネートされた。
アカデミー賞主演男優賞のノミネーション8回は、
ローレンス・オリヴィエ
と
スペンサー・トレイシー
の最多の9回に次ぐ記録である。
(右の写真)『ノーバディーズ・フール』
ジェシカ・タンディ
と
・最後の劇場用映画となった『ロード・トゥ・パーディション』
(2002年/監督:サム・メンデス)
でアカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。
(左の写真)『ロード・トゥ・パーディション』 トム・ハンクス(右)と
・ブロードウェイ劇「
Our Town
」
(2002年)
でトニー賞の主演男優賞に、同作のTVドラマ版
(2003年)
でエミー賞の主演男優賞にノミネートされ、TVドラマ「
Empire Falls
」
(2005年)
でエミー賞の助演男優賞、ゴールデン・グローブ賞の助演男優賞を受賞した。
・2007年、俳優業からの引退を発表。 ドキュメンタリー映画『ミーアキャット』
(2008年)
でナレーターを務めたのがタレントとしての最後の仕事となった。
・輝かしいキャリアを誇った俳優業だけでなく、多方面で活躍したスーパースターだった。
<政治活動>
人種差別の撤廃を訴え、キング牧師が有名な演説「
I Have a Dream 〜 私には夢がある
」をしたワシントン大行進
(1963年)
にも参加した。
民主党を支持し、ニクソン大統領の政敵リストに名前が記載されていたことも有名。ジーン・ハーショルト友愛賞を受賞した時には、「
アメリカは最も寛容な国だと思う…
」とスピーチした。
(右の写真)ワシントン大行進にて。右から、ポール・ニューマン、ダイアン・キャロル、
ジェームズ・ガーナー
。
マーロン・ブランド
(後方左)。
<レーシング・ドライバー>
自ら企画し、製作も兼ねた『レーサー』
(1969年)
へ の出演を機に、カーレースの虜になり、1972年、47歳の時にプロのレーシング・ドライバーとしてデビュー。1979年のル・マン24時間耐久レースで 2位になる等、見事な実績を残しただけでなく、レーシング・チームを設立し、最晩年までカーレースに情熱を注いでいた。
(左の写真)ル・マン24時間耐久レース出場時
<アクターズ・スタジオの運営責任者>
リー・ストラスバーグ
が亡くなった後、1983〜1995年までアクターズ・スタジオの運営責任者を務め、後任のアル・パチーノ等にバトンタッチした。
*
アクターズ・スタジオ責任者 …初代:
エリア・カザン
等(1947〜1962年)、2代目:リー・ストラスバーグ(1962〜1982年)。
(右の写真)「アクターズ・ズタジオ」で演技を勉強中の若き日のポール・ニューマン
<食品会社の設立>
1982年、食品会社「ニューマンズ・オウン」を設立し、サラダ・ドレッシング、パスタ・ソース、ワイン等を販売。
本人曰く、「
恥ずかしながら、自分の映画よりも利益を上げている…
」。
利益は全額が慈善団体等に寄付されており、その金額は2018年までに5億ドルを超えている。
(左の写真)「ニューマンズ・オウン」 商品ラベル
<慈善事業>
1988年、小児がん等の難病と闘っている子供たちの為のキャンプ場をコネチカット州に設立。『明日に向かって撃 て!』のブッチとサンダンスにちなんで、ギャング団「壁の穴」キャンプ場と命名された。現在は、SeriousFun Children's Netwaorkというコミュニティが、世界各地の10数か所のキャンプ場の運営を支援しており、その1つは日本にある。…
そらぷちキッズキャンプ
(右の写真)「壁の穴」キャンプ場にて子供たちと
・上記の他にも、飲料水の確保が困難な地域を支援する非営利団体Safe Water Netwaorkを設立
(2006年に他者と共同で)
する等、様々な慈善事業に尽力し、最も寛容なハリウッド・スターの1人として知られていた。
・
2008年
、
83歳
で他界。
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