20世紀・シネマ・パラダイス
映画界 事件&スキャンダルの歴史
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1944年
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‟メキシコの癇癪娘”ルーペ・ヴェレスのスキャンダラスな生と死 |
ルーペ・ヴェレス(1908〜1944年)。メキシコでレビューの人気スターとして活躍していたところをスカウトされアメリカへ。「極楽コンビ」ローレル&ハーディ主演の短編喜劇映画(1927年)で銀幕デビューした。
ダグラス・フェアバンクス主演の『ガウチョ』(1927年)のヒロインに抜擢され、以後、『嵐』(1930年/監督:ウィリアム・ワイラー)、『スコオ・マン』(1931年/監督:セシル・B・デミル)等でヒロインを務め、主演のコメディ『Mexican Spitfire』シリーズ (1939〜1943年)は8本も製作された。 |
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「Spitfire」は「癇癪もち」の意であるが、役柄同様に実生活でも気性が激しく、共演女優を殴りつけたこともあったという。多くの著名人と浮名を流し、ゴシップ欄を賑わせた。その中には、クラーク・ゲーブル、ジョン・ギルバート、エロール・フリンなどの名もあるが、特に有名なのがゲーリー・クーパーとのロマンスである。
(左の写真)『狼の唄』 ゲーリー・クーパーと
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ゲーリー・クーパーとは、『狼の唄』(1929年/監督:ヴィクター・フレミング)で共演して交際が始まったが、クーパーから別れ話を切り出されるとナイフや拳銃を持って追い回し、クーパーは精神的なストレスにより体重が激減したという。
(右の写真)ゲーリー・クーパーと
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その後、水泳選手として2度のオリンピックで5つの金メダルを獲得し、映画『ターザン』シリーズ(1932〜1948年)で人気を博したジョニー・ワイズミューラーと1933年に結婚したが、家庭内暴力が絶えず、3度の訴訟の末、1939年に離婚した。
(左の写真)夫のジョニー・ワイズミューラーと |
離婚後も数人の男性と交際し、最後の相手は、まだ駆け出しの年若い俳優(チンピラ・ジゴロのような男だったとか)
だった。当時36歳のルーペ・ヴェレスは初めて身籠ったが、この相手とも喧嘩別れをしてしまった。彼女はカトリック教徒だったので中絶することが出来ず、私生児を産む
ことも良しとしなかった。
(右の写真)遺作となった『Nana』(1944年)
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2人の女友達を招き、最後の晩餐として母国のメキシコ料理を食した後、ベッドに横たわると大量の薬を飲み込んだ。近くには遺書もあった。
? ところが、激しい吐き気で目を覚ました彼女は、バスルームへ駆け込んだが、床のタイルに足をとられ、便器に頭を突っ込んで溺死した。?
(左の写真)ルーペ・ヴェレスの葬儀
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* ?〜? は、暴露本作者の作り話で、実際はベッドの上で死んでいたとの説もある。 |
当時、ハリウッドの撮影所で働いていた裏方たちの組合は、「撮影所組合会議」と「撮影所国際同盟」の2つがあった。
1945年3月、「撮影所組合会議」が大規模なストライキに突入した。各社は、「撮影所国際同盟」の労働者たちの協力を得て撮影を継続していたが、スケジュールに遅延が生じていた。
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1945年10月5日の金曜日。ワーナー・ブラザーズ社の撮影所でピケを張っていた「撮影所組合会議」の労働者たちを、警官隊が催涙弾を用いて排除するという流血の事態が発生した。
この事件は、後にハリウッドで猛威を振るった ‟赤狩り”の呼び水となったとも言われている。 |
1947年
| ‟赤狩り” 〜 ‟ハリウッド・テン”の追放
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1948年
| パラマウント訴訟 〜 曲がり角を迎えたハリウッド
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映画の製作・配給・興行の全てを自社で賄っていたハリウッドのメジャー各社に対して、独占禁止法に抵触するとの判決が下された。メジャー各社は映画館(興行)を手放すこととなり、ハリウッドの‟スタジオ・システム”は終焉を迎えた。
また、1948年度のアカデミー賞において、作品賞に2本のイギリス映画 (『ハムレット』、『赤い靴』)がノミネートされるに及んで、メジャー各社はアカデミー賞への資金協力を中止することとなった。 |
1948年
| ロバート・ミッチャムが監獄で臭い飯を食う |
1948年9月1日。‟スリーピング・アイ”(眠たげな目)のタフガイとして人気スターの地位を確立していたロバート・ミッチャムが、マリファナ所持の容疑で逮捕された。
その後の裁判で60日間の懲役と2年間の保護観察処分が言い渡され、1949年2月16日〜3月30日までの43日間、刑務所で臭い飯を食った。
(右の写真)刑務所の部屋を掃除しているロバート・ミッチャム |
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俳優になる前、ティーンエイジのミッチャムは正真正銘の‟バッド・ボーイ”だった。14歳の時に家を飛び出し、肉体労働に従事しながら各地を放浪。16歳の時に浮浪罪で逮捕されたこともあり、この放浪中にマリファナ吸引を覚えたとも言われている。腕っぷしにも自信があり、ヘビー級のプロ・ボクサーとしてリングに上がったこともあった。
(左の写真)刑務所の部屋を掃除しているロバート・ミッチャム |
逮捕・投獄された時は、俳優としてのキャリアは台無しになったと思ったそうだが、逮捕後に公開された作品がヒットし、当時、彼が契約していたRKO社のボス、ハワード・ヒューズのお気に入りの俳優だったことも幸いだった。
出所後は、‟バッド・ボーイ”のイメージを逆手に取り、フィルム・ノワール作品を中心に活躍。中年になってからも風格ある演技を披露し、息長く活躍。伝説のスターの1人となった。
(右の写真) 出所時のロバート・ミッチャム |
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1949年
| イングリッド・バーグマンの不倫スキャンダル
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「いつでもあなたと映画を作る準備があります」。『無防備都市』(1945年)等に感銘を受けたイングリッド・バーグマンが、監督のロベルト・ロッセリーニに手紙を書いた。
1949年3月、同監督の『ストロンボリ/神の地』に出演するためイタリアへ飛んだバーグマンは、ロッセリーニ監督と恋に落た。当時人気No.1のスーパー・スターの不倫は、世界中の映画ファンに衝撃を与えた一大スキャンダルとなった。詳細はこちら |
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