20世紀・シネマ・パラダ イス
イングリッ ド・バーグマン
Ingrid Bergman
1915-1982 (スウェーデン)
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・
『汚名』
(1946年/監督:
アルフレッド・ヒッチコック
)。
当時の映倫規程を逆手にとった、2分半にも及ぶキス・シーンも話題に。全米の年間興行成績で第7位の大ヒット。セルズニックとの契約下での最後の作品。
(右の写真)『汚名』
ケーリー・グラント
と
・1946年、ドル箱(マネー・メイキング) スター・ベストテンに第2位で初登場。以後、1947年(3位)、1948年(10位)と3年連続でランクインした。
・ブロードウェイの舞台劇「ロレーヌのジャンヌ」
(1946年〜)
に出演。翌年にスタートした第1回トニー賞で演劇主演女優賞を受賞した。
舞台「ロレーヌのジャンヌ」
・『凱旋門』
(1948年/監督:
ルイス・マイルストーン
)
。
シャルル・ボワイエ
と再共演。本作の撮影中、報道写真家のロバート・キャパと恋愛関係になった。
(左の写真)『凱旋門』 シャルル・ボワイエと。
・『ジャンヌ・ダーク』
(1948年/監督:
ヴィクター・フレミング
)。
バーグマンの念願であった舞台「ロレーヌのジャンヌ」の映画化作品。独立系の製作者
ウォルター・ウェンジャー
が大金を投じた大作だったが赤字となった。
バーグマンは4度目のアカデミー賞主演女優賞候補に。
(右の写真) 『ジャンヌ・ダーク』
・『山羊座のもとに』
(1949年/監 督:アルフレッド・ヒッチコック)。
ヒッチコック監督がバーグマンの為に撮ったとも言われている作品。
ジョゼフ・コットン
と再共演。興行的には失敗作となった。
(左の写真)『山羊座のもとに』 ジョゼフ・コットンと
・イタリア・ネオレアリズモの傑作映画『無防備都市』
(1945年)
、『戦火のかなた』
(1946年)
に衝撃・感動を受けたバーグマンは、監督の
ロベルト・ロッセリーニ
に手紙 を書いた。
「
英語、独語が話せます…。伊語は‘愛している’しか知らないスウェーデン女優は、いつでもあなたと映画を作る準備があります。
」
・1949年3月、バーグマンはローマへ飛んだ。ロッセリーニ監督も既婚者だったが、『ストロンボリ/神の地』の撮影中に、2人は恋に落ちた。
・バーグマンとロッセリーニの不倫は明るみとなり、一大スキャンダルとなった。
バーグマンは事実上ハリウッドから追放され、夫と娘も捨て、ロッセリーニのもとへ。
(右の写真)ロベルト・ロッセリーニと
・1950年、ロッセリーニとの間で、長男ロベルティーノを授かった。夫リン ドストロムとの離 婚が成立し、ロッセリーニと再婚。
1952年、イザベラ(後に女優)とイゾッタの双子の姉妹を授かった。
(左の写真)3人の子供たちと
『ストロンボリ/神の地』
(1950年)
『ヨーロッパ 1951年』(1952年)
『我ら女性』(1953年)
… オムニバスの第3話
『イタリア旅行』(1954年)
ジョージ・サンダース
と
『不安』(1954年)
マシアス・ヴィーマンと
『火刑台上のジャンヌ・ダルク』(1954年)
・ロッセリーニとは6作品で組んだ。『イタリア旅行』
(1954年)
はバーグマンの代表作の1作として高く評価されているが、公開当時はどの作品も不人気で、2人の結婚生活は破綻した。
・『恋多き女』
(1956年/仏・伊)。
フランスの巨匠
ジャン・ルノワール
監督の恋愛コメディ。
(右の写真)『恋多き女』 メル・ファーラーと
・『追想』
(1956年/監督:
アナトール・リトヴァク
)。
バーグマンにとって7年ぶりのハリウッド映画だが、イギリス、フランス、デンマークで撮影された。
共演は、
ユル・ブリンナー
と、第1回エミー賞演劇女優賞を共に受賞した
ヘレン・ヘイズ
。
(左の写真) 『追想』 ヘレン・ヘイズと
・『追想』で2度目のアカデミー賞主演女優賞を受賞。一度は追われたハリウッドから復帰を歓迎された。アカデミー賞授賞式では、ハリウッド追放後も変わらぬ友情を示していたケーリー・グラント が代理人としてオスカー像を受け取った。
・パリで舞台劇「お茶と同情」
(1956年)
に出演。バーグマンは、スウェーデン語、独語、英語、伊語、仏語の5カ国語が話せ、以後、映画だけでなく米・英・仏の舞台で も活躍した。
*
「お茶と同情」 … 1956年の映画では、
デボラ・カー
が主演を演じた。
(右の写真)舞台「お茶と同情」
・1957年、ロッセリーニとの離婚が成立。翌1958年、演劇プロデューサーのラルス・シュミットと3度目の結婚。
(左の写真)3番目の夫ラルス・シュミットと
『無分別』(1958年/監督:
スタンリー・ドーネン
)
ケーリー・グラントと
『六番目の幸福』(1958年)
クルト・ユルゲンスと
『さよならをもう一度』
(1961年/監督:アナトール・リトヴァク)
イヴ・モンタン
と
『訪れ』(1964年)
アンソニー・クイン
と
『黄色いロールス・ロイ ス』(1964年)
オマー・シャリフと
『刺激』(1967年)
『サボテンの花』(1969年)
ゴールディ・ホーン(左)と
『春の雨の中を』(1970年)
アンソニー・クインと
『クローディアと貴婦人』(1973年)
『オリエント急行殺人事 件』
(1974年/監督:
シドニー・ルメット
)
・『オリエント急行殺人事件』で、アカデミー賞助演女優賞を受賞。
受賞のスピーチでは、本命視されていた『映画に愛を込めて アメリカの夜』のバレンティナ・コルテーズを賞賛し、エールを送った。
(左の写真)自身3度目のオスカー像を手にするバーグマン
アカデミー賞での受賞スピーチ
・1974年、乳がんにより片方の乳房を切除。
・1975年、ラルス・シュミットと離婚。
・『ザ・スター (時間の問題)』
(1976年)。
ヴィンセント・ミネリ
監督、3度目の共演となった
シャルル・ボワイエ
、2人の遺作。主役はミネリ監督の娘のライザ・ミネリ。
バーグマンは娘のイザベラ・ロッセリーニと最初で最後の共演をした。
(右の写真)『ザ・スター (時間の問題)』
ライザ・ミネリと
・『秋のソナタ』
(1978年)。
母国スウェーデンの巨匠
イングマール・ベルイマン
監督の作品で、アカデミー賞主演女優賞にノミネート(助演も含め7度目)された。バーグマンの最後の劇場用映画となった。
(左の写真)『秋のソナタ』
・1979年、乳がんが再発し、もう片方の乳房も切除。『秋のソナタ』 の撮影中にがんの再発を知らされていた。
・1980年、自伝「マイ・ストーリー」を出版。大ベスト・セラーに。
・遺作となったTVドラマ「ゴルダと呼ばれた女」
(1982年)
で、自身2度目のエミー賞、ゴールデン・グローブ賞
(ミニシリーズ・テレ ビ部門)
の主演女優賞を受賞。
銀幕の名花バーグマン、その散り際も見事であった。
(右の写真)「イングリッド・バーグマン」と名付けられたバラ
・
1982年
8月29日、ロンドンにて、
67歳
の誕生日に他 界。
墓碑銘には「
生の最後の日まで演技した
」と刻まれた。
・
1999年
、
AFI(アメリカ映画協会)が選定した「伝説のスター・ベスト50」 で、女優部門の第4位に選出。
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