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映画界 事件&スキャンダルの歴史

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1935年
人気女優の不可解な死 (アメリカ)

 ある人気女優が、車庫に止めてある車の中で死んでいるのが発見された。捜査の結果、事故による一酸化炭素中毒死と結論づけられたが…。

 セルマ・トッド(1905-1935)。20歳の時にマサチューセッツ州の美人コンテストで優勝。パラマウント社にスカウトされて、1926年に銀幕デビュー。ローレル&ハーディマルクス兄弟バスター・キートンなどの喜劇映画でヒロインを務め、‟アイスクリーム・ブロンド”の愛称で親しまれていた。

 1934年、ロス近郊に「セルマ・トッドのサイドウォーク・カフェ」をオープンし、副業でも成功していた。
 (右の写真)セルマ・トッド
 
Thelma Todd

Monkey Business Speak Easily
『いんちき商売』(1931年)
グルーチョ・マルクスと
『キートンの歌劇王』(1932年)
 バスター・キートンと

 そんな彼女が車の中で死体で発見された。自殺の動機は皆無だったという。本当に事故だったのだろうか?

Thelma_Todds_Sidewalk_Cafe
 殺害されたとする説が2つあった。
 
 @ セルマのカフェは立地も客筋も良く、そこにギャンブル場の建設を目論んでいたマフィアの大ボス、ラッキー・ルチアーノの一味に殺害された、との説があった。
 (左の写真)「セルマ・トッドのサイドウォーク・カフェ」
 

 A カフェの共同経営者で、セルマの恋人でもあったらしい映画監督のローランド・ウェスト。セルマの主演映画『海賊』(1931年)の監督でもある。彼はセルマの死後、忽然と映画界から姿を消したそうである。そして、1952年に亡くなる前に、セルマの殺害を告白した、との証言もあったようだ…。
 (右の写真)「セルマ・トッドのサイドウォーク・カフェ」
Thelma_Todds_Sidewalk_Cafe-2


1936年
サイレント映画スターの悲劇 (アメリカ)

 「お楽しみはこれからだ! - You ain't heard nothin' yet! - 」。映画『ジャズ・シンガー』(1927年)の主演アル・ジョルソンの台詞でトーキーの時代へ突入したハリウッド。しかし、トーキーに順応出来ず、姿を消していったスターもいた。

John Gilbert  ジョン・ギルバート(1897-1936年)。サイレント期の大ヒット作『ビッグ・パレード』(1925年/監督:キング・ヴィダー等に出演。ルドルフ・ヴァレンチノ(1926年没)亡き後のハリウッドにおいて、人気NO.1の美男子スターとなった。

 ラヴ・シーンの名手と言われ、『肉体と悪魔』(1926年)等で共演したグレタ・ガルボとは、「世紀の美男美女」として絶大な人気を誇り、私生活でのロマンスも噂された。
 (左の写真)ジョン・ギルバート

 自身初のトーキー『彼の栄光の夜』(1929年)で、イメージとかけ離れた声により、観客の失笑を買い、人気が失墜した。
 (右の写真)『彼の栄光の夜』
 キャサリン・デール・オーウェンと
His_Glorious_Night

Queen_Christina
 ガルボの指名で5年ぶりに共演した『クリスチナ女王』(1933年)は大ヒットしたが、ギルバートの人気回復とはならなかった。

 仕事が減り、酒に浸る生活を送るようになっていたという。
 (左の写真)
『クリスチナ女王』
 グレタ・ガルボと


 1936年、2年ぶりの出演作となるはずだった『真珠の頚飾』(監督:フランク・ボゼージの撮影中に楽屋で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
 
死因はアルコール誘発性の心臓発作。享年38歳だった。
 (右の写真)幻の出演作となった『真珠の頚飾』撮影時。
 マレーネ・ディートリッヒゲーリー・クーパー(右)と
Desire

 『ラジオスターの悲劇(Video killed the Radio Star)』(1979年)という洋楽のヒット曲があったが、ジョン・ギルバートの最期は、「サイレント映画スターの悲劇(Talkie killed the Silent Star)」だと言える。


1936年
混乱のアカデミー賞 初の受賞拒否者 (アメリカ)

 この年、不況下で賃金のカットを迫る会社側と対立していた各組合は、会社側が牛耳っていたアカデミー賞授賞式のボイコット運動を展開していた。

1936_Academy_Awards-2  当時のアカデミー協会会長フランク・キャプラは、出席者を増やすため、既に引退していたものの、「アメリカ映画の父」として崇拝されていたD・W・グリフィス監督を招き、名誉賞を贈呈するなど趣向を凝らし、何とか授賞式開催に漕ぎ着けた。
 (左の写真)左から、主演男優賞のヴィクター・マクラグレン
 主演女優賞のベティ・デイビス、D.W.グリフィス

 しかし、『男の敵』(監督:ジョン・フォードで脚色賞を受賞したダドリー・ニコルズ(1895-1960)が、脚本家組合の仲間たちを裏切ることになるとして受賞を拒否。アカデミー賞史上初の受賞拒否者となった。
 * ダドリー・ニコルズ  … 『赤ちゃん教育』、『駅馬車』『誰が為に鐘は鳴る』などの脚本・脚色作品がある。

 その後、キャプラ会長は、大手映画会社の経営者たちによって占められていた協会の会員数を7倍近くに増やすなどの改革を実施。アカデミー賞が映画人全体のものになるように尽力した。
 (右の写真)左から、ベティ・デイビス、フランク・キャプラ、
 ヴィクター・マクラグレン

1936_Academy_Awards-3


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