20世紀・シネマ・パラダイス
ウィリアム・ワイラー
William Wyler
1902-1981(アメリカ)
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・
1945年、
フランク・キャプラ
、
ジョージ・スティーブンス
等とリバティ・フィルムズ社を設立したが、1948年に解散。
・戦後の1作目
『我等の生涯の最良の年』
(1946年)
は、インフレ調整後の興行成績で歴代75位
(2014年現在)
となる記録的大ヒットに。3人の復員兵の各々の苦悩を描き、戦勝国においても戦争の傷跡に直面していることを示した。
アカデミー賞では8部門でノミネートされ、作品賞、監督賞、主演男優賞
(
フレドリック・マーチ
)
、助演男優賞
(ハロルド・ラッセル)
、脚色賞、編集賞、劇・喜劇映画音楽賞の7部門で受賞。
サミュエル・ゴールドウィン
との最後の作品。
『我等の生涯の最良の年』(1946年)ハロルド・ラッセル、
ダナ・アンドリュース、フレドリック・マーチ
アカデミー賞授賞式にて
サミュエル・ゴールドウィン(左)、ハロルド・ラッセル(中央)と
・パラマウント社で、ブロードウェイの舞台劇を映画化した
『女相続人』
(1949年)
を製作・監督。アカデミー賞では、作品賞、監督賞など8部門でノミネートされ、主演女優賞
(
オリヴィア・デ・ハヴィランド
)
、劇・喜劇音楽賞、美術監督賞
(白黒部門)
、衣装デザイン賞
(白黒部門)
の4部門で受賞した。
『女相続人』(1949年)
モンゴメリー・クリフト
、オリヴィア・デ・ハヴィランド
誕生日が同じ「7月1日」のハヴィランド(左)と
右は
ミリアム・ホプキンス
・シドニー・キングスレー原作の舞台劇を映画化した『探偵物語』
(1951年)
を製作・監督。アカデミー賞の監督賞など4部門でノミネートされた。
『探偵物語』(1951年)
カーク・ダグラス
、エレノア・パーカー
『探偵物語』撮影時
バーニー・バラバン (パラマウント社社長)、カーク・ダグラスと
・セオドア・ドライサーの小説を映画化した『黄昏』
(1952年)
を製作・監督。アカデミー賞では、美術賞、衣装デザイン賞
(白黒部門)
の2部門でのノミネートにとどまった。
『黄昏』(1952年)
ローレンス・オリビエ
、
ジェニファー・ジョーンズ
『黄昏』撮影時
ローレンス・オリビエ(右)と
・日本で最も人気のある作品となった
『ローマの休日』
(1953年)
を製作・監督。ほぼ無名の新人
オードリー・ヘップバーン
をヒロインに抜擢し、その魅力を目一杯引き出した手腕はさすが。
アカデミー賞では、作品賞、監督賞など9部門でノミネートされ、主演女優賞
(オードリー・ヘップバーン)
、原案賞、衣装デザイン賞
(白黒部門)
の
3
部門で受賞。
『ローマの休日』(1953年)
オードリー・ヘップバーン、
グレゴリー・ペック
『ローマの休日』撮影時
オードリー・ヘップバーンと
・ブロードウェイの舞台劇を映画化した『必死の逃亡者』
(1955年)
を製作・監督。『この三人』
(1936年)
以降のアカデミー賞連続ノミネートが15作で途切れたが、本作も犯罪サスペンスの第1級作品。凡作、駄作がない手腕は名匠たる証し。
『必死の逃亡者』
ハンフリー・ボガート
、マーサ・スコット
『必死の逃亡者』撮影時
ハンフリー・ボガートと
・平和主義のクェーカー教徒一家の姿を描いた『友情ある説得』
(1956年)
を製作・監督。自身初のカラー作品で、アカデミー賞の作品賞、監督賞など5部門でノミネートされた。
『友情ある説得』(1956年)
ゲーリー・クーパー
、
ドロシー・マクガイア
『友情ある説得』撮影時
ゲーリー・クーパー(左)と
・『友情ある説得』は、カンヌ国際映画祭のパルム・ドール
(グランプリ)
を受賞。ワイラー監督の輝かしいキャリアに、また1つ大きな名誉が加わった。
(左の写真)カンヌ画祭のトロフィー(黄金のシュロ)を手に
・18年ぶりとなる西部劇
『大いなる西部』
(1958年)
を製作・監督。原作の映画化権を取得したグレゴリー・ペックからの要請で、共同製作者兼監督を務めた。
アカデミー賞の助演男優賞と劇・喜劇音楽部門の2部門でノミネートされ、助演男優賞
(バール・アイヴス)
を受賞。
『大いなる西部』(1958年)
ジーン・シモンズ
、グレゴリー・ペック
『大いなる西部』 出演者たちと
・MGM社で、スペクタクル史劇
『ベン・ハー』
(1959年)
を監督。サイレント期の1907年、1925年に続き3度目の映画化だが、ワイラー監督は1925年版で助監督を務めていた。製作に6年半を費やし、54億円もの巨費を投じた超大作。インフレ調整後の興行成績で歴代13位
(2014年現在)
となる記録的な大ヒットとなった。
『ベン・ハー』(1959年)
チャールトン・ヘストン
(左)、スティーブン・ボイド
『ベン・ハー』撮影時
チャールトン・ヘストン(左)、スティーブン・ボイド(中央)と
アカデミー賞では、作品賞、監督賞、主演男優賞
(チャールトン・ヘストン)
、助演男優賞
(ヒュー・グリフィス)
、撮影賞、美術賞、衣装デザイン賞、編集賞、劇・喜劇音楽賞、音響賞、特殊効果賞の11部門で受賞。史上最多受賞の新記録を樹立した。
(右の写真) オスカー像を手にするワイラー監督
・『この三人』
(1936年)
のリメイク作『噂の二人』
(1961年)
を製作・監督。アカデミー賞助演女優賞
(フェイ・ベンダー)
など5部門でノミネートされた。
『噂の二人』(1961年)
オードリー・ヘップバーン(左)、
シャーリー・マクレーン
『噂の二人』撮影時
オードリー・ヘップバーン(左)、シャーリー・マクレーンと
・英米合作の『コレクター』
(1965年)
では、ニューロティック
(異常心理)
サスペンスという新ジャンルに挑み、アカデミー賞の監督賞、主演女優賞、脚色賞の3部門でノミネート。カンヌ国際映画祭の主演男優賞
(テレンス・スタンプ)
、主演女優賞
(サマンサ・エッガー
)を受賞した。ワイラー監督は、同年公開された『サウンド・オブ・ミュージック』の監督を辞退していた。
『コレクター』(1965年)
テレンス・スタンプ(左)、
サマンサ・エッガー
撮影現場を訪れた
フェデリコ・フェリーニ
監督(右)と
後ろはサマンサ・エッガー、テレンス・スタンプ
・1965年度のアカデミー賞でアービング・G・タルバーグ賞を受賞。
生涯でアカデミー賞監督賞を3度受賞。最多は
ジョン・フォード
監督の4度だが、ワイラー監督のノミネート12回は歴代最多。また、作品賞ノミネート13作、受賞3作も歴代最多記録
(2015年現在)
。ワイラー監督の作品でオスカーを獲得した俳優は13名にものぼる。
(左の写真) アービング・G・タルバーグ賞の像を手に
・オードリー・ヘップバーンとの3作目『おしゃれ泥棒』
(1966年)
を監督。
『おしゃれ泥棒』(1966年)
ピーター・オトゥール
、オードリー・ヘップバーン
『おしゃれ泥棒』撮影時
オードリー・ヘップバーンと
・自身初のミュージカル『ファニー・ガール』
(1968年)
を監督。アカデミー賞の作品賞など8部門でノミネートされ、舞台に引き続き主役を演じたバーブラ・ストライサンドが主演女優賞を受賞。
(『冬のライオン』の
キャサリン・ヘップバーン
とのダブル受賞)
。
『ファニー・ガール』(1968年)
オマー・シャリフ、バーブラ・ストライサンド
『ファニー・ガール』撮影時
バーブラ・ストライサンドと
・黒人差別問題を描いた『L.B.ジョーンズの解放』
(1970年)
が最後の作品となった。
『L.B.ジョーンズの解放』(1970年)
リー・J・コッブ
(左)、ロスコー・リー・ブラウン
『L.B.ジョーンズの解放』撮影中のワイラー監督(右)
(手前
)リー・J・コッブ(左)、ロスコー・リー・ブラウン
・1976年、AFI(アメリカ映画協会)の生涯功労賞を受賞。グレゴリー・ペックが授賞式のホストを務めた。
・1980年、黒澤明監督の『影武者』のプレミア試写会に招かれて来日。
・ワイラー監督の作品は、「キネマ旬報ベスト・テン」に14作ランク・イン。洋画部門では20世紀中で最多である。
『北海の漁火』(昭和7年7位)、『孔雀夫人』(昭和12年4位)、『デッド・エンド』(昭 和14年5位)、『我等の生涯の最良の年』(昭和23年2位)、『女相続人』(昭和28年10位)、『探偵物語』(昭和28年3位)、『ローマの休日』 (昭和29年6位)、『偽りの花園』(昭和29年10位)、『必死の逃亡者』(昭和31年2位)、『友情ある説得』(昭和32年9位)、『大いなる西部』 (昭和33年1位)、『噂の二人』(昭和37年9位)、『コレクター』(昭和40年6位)、『L・B・ジョーンズの解放』(昭和48年9位)。
・
1981年
、
79歳
で他界。
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